[コメント] ターン(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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原作未読。
ひとりっきりで世界に放り出されて、そこで同じ一日を繰り返すことになる牧瀬里穂演じる27歳の彼女。すべてが無為な回帰を繰り返すその世界で、何故かしら消えていくことがない自分の記憶だけを頼りに、彼女は“毎日”を生きることになる。漠として打ち続く無為な“毎日”。ミニマルな日常の生活範囲に閉塞し、いつまでも打ち続いていくかに思われたそんな“毎日”は、だが何故かしら外界(?)と通じてしまった一本の電話によって破られる。
見ようによってはいかにもSFの短編にでもありそうな物語で、そこで暗示される寓意もとても判り易いものではないかと思う。ひとりきりの無為な毎日、そこに閉塞していた世界が、他者とコンタクトすることで変質する。繰り返す無為な毎日の中に指標としての「明日」が生まれる。母子家庭のこじんまりした、社会性の希薄な暮らしを繰り返していた彼女だったからこそこんな世界に落ち込んだのかもしれず、またそんな世界から彼女を自由にするのもまた、彼女がそれでも捨てようとしなかった人間としての社会性であったりする。それはわかる。わかるけれども、その突っ込みがあまいと思う。
北村一輝が演じる男は現実の世界で社会から追われる身だったからこそ、放り出されたその世界にあっさり社会性を捨てて順応してしまうわけだが、彼の役割が暗に体現しているはずの、社会性を捨てた無為な毎日(ニヒリズム)との正面対決はついに為されない。この物語にとって彼は何モノだったのか。この物語が演じられたのは、何の(誰の)世界だったのか。なぜそれは生じることになったのか。
私がもしあの世界に放り出されて、一本の電話もかかってくることがなかったならば、おそらくはその無為な毎日の中であの(この)世界の秘密をひたすら考え続けるのかもしれない。「私」の内部(?)に蓄積され続ける記憶だけがあの(この)世界の持続を認識させる。だがその場合の「世界」とは空間的・時間的ひろがりがほとんどない世界であるのはあきらかだ。客観としての世界は一向に変わることがなく、主観としての「私」が存在し続けるだけ(の世界)。だが、雑音が欠落したミニマルな日常の繰り返しの中でそれでも考え続けることは、いつしか「世界」や、「社会」や、あるいは「他者」というもののほんとうの意味を、雑音だけの日常よりももっとはっきりと浮かびあがらせることもできるのではあるまいか。毎日、日が昇り沈んでいくことの不思議、電気や水道といったインフラが支える社会の基盤、そしていつも顔をあわせて言葉を交わす人達……。泣きたくなるような切実さで、それを希求すること。なぜそれを「私」はそれを希求してしまうのかということ。
社会性を捨てようとしなかったことで、彼女は現実の世界、現実の社会に復帰することができた。だがそれはどういう意味のある体験だったのか。残念ながらこの映画の脚本ではそれが判然としないように思われる。このような特異な枠組みの物語の中における彼女の体験が、見ている「私」(達)に共通の経験となる為には、そこに「私」(達)が存在し、生きることの中途半端な(この世のどこかにある)内実をではなく、かたちをこそ示せなければならないと思う。
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