[コメント] マルホランド・ドライブ(2001/米=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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見終わった印象の中に、妙にアイズ・ワイド・シャットと似たものを感じたからである。どこがどう似ていたのか、うまく言えない。この手の作品は「現実」的なつじつま合わせよりも全体の印象を手がかりにさぐっていくのが合っている。精神分析で言うなら、生育歴のエピソードを順序立てて精神のドラマを解明していくフロイトの方法より、あるエピソードから連想を拡充して全体像に迫るユングのやり方が適している。こんなことを言いたくなるのも、この作品が夢と現実の両方を支えている人間の精神世界をそのまま視覚的なイメージの連鎖として表現しているように思われるからだ。
印象と言ったが、それもはっきりしたものではない。ひとたび表現すればしたそばからただちに微妙な違和感が生じるような、そんな感触の印象である。フェリーニの8・1/2、ベルイマンの野いちご、そんな印象もある。画面と音楽からはビデオ・ゲームのバイオ・ハザードが思い浮かぶ。そしてもちろんリンチ・ワールドは遺憾なく炸裂している。完成度の高い傑作と呼びたいところだが、私には腑に落ちないところがある。
イメージの連鎖と全体の構成に齟齬がある。青い箱を開いて、「現実」的な制約を離れて進行する後半が性急なのだ。それまでが夢でそこからが現実だ、というようなことではない。リンチには表現したいものがあり、それが納得いくように表現できなかったのではないか、と思う。
えっ、そこまでやるか、と劇場で見ていて思った「ベティ」のオナニーシーン。鳴り出した電話で中断される。その電話は「リタ」からのパーティの誘いである。この展開はうまい、というか納得できる。が「ベティ」役のナオミ・ワッツが一番難しかった(恥ずかしかった)というこのシーン、そこまでタブーを犯してリンチが表現したかったことは何か。その切迫感に対応する構成がどこかになければならない。それが私にはわからなかった。あちこちにそう思わせるところがある。
夢の中の男に会いに来る青年。裏手に回って、その人物が現れる。青年は卒倒する。画面は青年のアップになる。ここでは、その夢の中の謎の人物に関するなんらかの描写が欲しい。はっきりアップで見せて欲しいということではない。どこか違う、という違和感が残る。この微妙な違和感はずっと続いた。
シレンシオというリンチに取っては外国語を重要なキーワードに持ってくる。人は自分にとって重大な真実を語らなければならないときは、遠回りをする。比喩を使ってほのめかし、過剰な装飾で飾りたて、直接真実を投げ出そうとはしない。夢がそういうやり方でその人にとっての真実を伝えようとしている、というのがフロイトの仮説であった。この真実が社会に認められがたいものであり、自分の中にそれを表現したいという希求が強ければ強いほど、その表現は迂回路を通らざるを得ない。
監督として熟練しているリンチは的確な技術で自分の表現したいイメージを映像化している。冒頭のダンスシーン、空港での老夫婦、ロスアンジェルスの夜景、爆走する車から身を乗り出す若者、、、、もう枚挙にいとまがない。見事である。そこに注目すれば完成したリンチワールドの集大成だ。リンチの言葉ではこれは「愛の作品」だと言う。この愛は嫉妬と絶望で彩られている。そういう愛も真実ならそこには説得力があるはずだ。だが映画の完成度を突き抜けて伝わってくる真実が私にはわからなかった。
リンチは「悪意」の作家である。イメージとテーマにおいて、イレイザーヘッドからずっとリンチ作品の底流に流れているのは「悪意」である。その「悪意」の真実ときっちり勝負して余すところなく表現した作品を私は見たい。
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