[コメント] ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(2001/米)
追加1: もしも今のわたしに点数が残っているのなら、ぜんぶぜんぶ、一滴残さず、この映画にぜんぶ。もってって。持ってかれたい。
追加2: わたしはすでに劇場で10回はみたけど、あと100回は観たいわ。もちろん髪型をヘドヘアにしてご出勤。(ちょっとウソ)
追加3: なんか女装したい。いや、カツラだけでも。そんでもって夜過ごして、朝になってウイッグを見たら、泣けるのだろうか。と、そうぞうするだけで悲しいわ。文字通り哀れだ。
●しつこくヘドウィグ情報:渋谷シネマライズにおいて「ヘドウィグ・カラオケナイト」が開催(予定)。そして、ヘドヘッドが無料で貸し出される(らしい)です。って、なんか劇場でみんながそんな格好で唄っている光景を想像するだけで、ジュンってきちゃう。ああ、もうだめだめ。
■ つべこべいい続けた感想の総括! こんなに観終わった後に「シアワセ」になれた体験は、そうはないなあ。と、
「片割れ探し」から最後には「あんたは、そのままでいいんだよ」と。そう言ってるんじゃなかろうか。
とか、うきうきしていた感想から一変し。
■20020627 走りきってしまったんだねジョン・キャメロン・ミッチェル
同じ映画を何度も見るという行為は、感情移入を深くするということにはならなく、寧ろ表面的な台詞や音楽の心地よさを何度も何度も繰り返すことだけでしかなく。それは、お気に入りのアルバムを流しっぱなしで何度も繰り返して聴くことや。定番のわかりきっているオチを言うギャグに安心して笑ってしまうことと同じことなのかもしれない。
そして、実は最初から、この映画から妙な感触を覚えていたことなのだけど。繰り返してみて確信をしたのは。あるいは、ヘドウィグとしてではなく、ジョン・キャメロン・ミッチェルに感情移入してしまったことなのだけど。
実はこの映画から、ジョン・キャメロン・ミッチェルの役者としての熱意が感じられないのだ。すでにオープニングから、彼は諦めている顔をしている。そして、わずかに微笑む場面を挟んでも、彼はすでにもう何かを得ようとはしていないのだ。
聞くところによる初期の舞台の頃はヘドウィグが自分を追いかけ、音楽を作り出し、という様が物凄い彼自身の上昇志向と熱気とともに語られていたらしいが。それはこの映画化をするに際して物語を再構築する際に、その本来の熱気は見事に削がれてしまっている。何度も何度も舞台で繰り返し演じ、唄ったであろう、どのナンバーも、適度に切なくポップで魅力的。そして、それでいて、何か疲れているんだ。
彼はもう、あまりに同じ役を作り、同じ役を演じすぎてしまったのだろう。それは、何度も演じている芝居はあまりにも、自分のものになってしまい。寧ろそこには、この映画化の際には創造の域すらなかったかのように見える。どこから、どこまでも、哀しく、彼は本気でこの映画で何かを成し遂げようとしているとは思えないのだ。そして、そこから覗えるものは成し遂げたという充足感ではなく。。まるで、探し物は結局のところ。。
ジョン・キャメロン・ミッチェルは、何かを作らなければならなくなるのかもしれないけど。もう、本当に熱意を込めて作り出すことはできないのではないのだろうか。そんな風に勝手に彼を見てしまうこちらこそ問題があるのも十分承知の上。この映画に刻み込まれたジョン・キャメロン・ミッチェルの姿はあまりに、生々しく。いとおしい。
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