コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 害虫(2002/日)

根源的受動性を、自ら引き受けるということ。それは予め振るわれた暴力を自らの手で引きうけ、自らの暴力にすることで暴力を振るわれた自分を、世界に改めて位置付けるということ。自分と世界を暴力によって反転させることが、根源的受動性を受け入れるということに繋がるのか??
蒼井ゆう21

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







評論家の芹沢俊介さんによると、人は生まれながらにして、イノセンス、「根源的受動性」を負っているという。

それは例えば、人は自分の顔がカッコイイ(キレイか)かカッコ悪い(キレイじゃないか)か、どこに生まれるか、どんな親を持つかも、はたまた中学生だったら、自分の教わる先生がどんな先生かも、どんな同級生達と一緒になるかも、自分で選ぶことができない。 それは、自らが受け入れることが出来ない限り、いわば世界から一方的に振るわれた暴力、とも言えると思う。それをイノセンス(根源的受動性)という

しかしその点で、誰もがその根源的受動性な存在なのだが、彼女はとりわけ人よりもそれが多く?、自ら受け止めきれず、悩まされているように思う。それが最大だと思うのが、しょっちゅう声をかけられるくらいにキレイな顔。それがきっかけの一つかで、小学校の先生と付き合い(たぶん他にも原因があるだろうけど、それも結構大きいと思う)同級生から告られ、友達との関係はぎくしゃくなり。。 あとは離婚して、情緒不安定な親、(別に離婚が悪いということではありません)、、など

芹沢俊介さんは、上のようなイノセンスの概念を語った上で、そのイノセンスを表出当ー解体するために、当事者がそのイノセンスを受け入れられるようになるような働きかけをする他者が必要だ、という風に言っています。 例えば、何で俺の顔はこんな不細工なんだ、とか、何でこんな親に生まれたんだとか、そんな不満をきちんとぶつけられ、受け入れてくれる他者の存在。 この主人公は、そのイノセンスを受け入れるための媒介になる他者が不在なように思えます。親?教師?友達?あの茶髪の男?ここに上げた人たちは皆、何かの「解消」にはなるかもしれないが、何かを自ら「解決」できうるに足るほどの支えになれるようには思えない。一番可能性に近いと思われた茶髪の男もどっか行ってしまう。そして、その媒介となる他者の不在、という状況さえも、イノセンスの一つとなっているような気がする。

そのような、根源的受動性を背負った主人公は、それを、能動的暴力に変えることで、世界に暴力を振るう。そうすることで、自らが一方的に振るわれる暴力、という図式を反転しているのではないだろうか。世界から振るわれた暴力は、今度は自らが振るう暴力に変わり、イノセンスな存在だった自分は、非イノセンスな自分になり、非イノセンスだった世界は、イノセンスな世界となる。

別にそのような暴力を肯定したいわけでもない。ただ、その根源的受動性を引き受ける過程というのは何かしらの暴力的意味合いを帯びてくるのではないだろうか。 受け止める媒介者を持たなかった彼女は、最後声をかけてきた男を選び、行ってしまう。それは、一方的に与えられた自らの美しさ、というものを利用することで、その暴力を自らのものにし、一方的な暴力を、自らの暴力に変えようとしたのではないだろうか。

最後、彼女は、自分を許すことができますか?(みたいなの)という手紙を先生に送った。 予め許されなかった自分を自らの手で許されない存在にして、自ら許すということ。 その時、彼女は初めて自らの根源的受動性を受け入れられることができるようになるのではないでしょうか・・

*芹沢さんの概念が結構あいまいで、もしかしたら間違ってるかもしれません。あくまで考えの参考に使ったので・・間違ってたら訂正します。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)ことは[*] uyo[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。