[コメント] ハッシュ!(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
●かくして映画の中に「風」は生まれる
作為を感じさせない描写の周到な綿密さ、とでもいえばいいのか。ことに前半における、例えばそれぞれの仕事場や会社宴会のシーンにおける他愛ない会話、インストラクターが振りまく下世話な笑いにうれしがる妊婦たち、さらにはゲイバーにおける高橋和也とその友達二人との会話、冨士眞奈美の無知ゆえの無邪気さ、など・・・。それぞれが「あざとさ」にもなりかねない性質のものながらも、セリフのひとつひとつが「さもありなん」なのである。「ああ、確かにこういう人なら、この場ではこういうこと言うな。こういう反応するだろうな。」、全てがそこから逸脱することがないので、こちら側に必要以上に奇異な描写として写らないのである。また逆の言い方をすれば、何気ない一言一言でその人間のキャラクターが鮮やかに輪郭を現す、とも言えるだろう。
さらには、その「さもありなん」な描写の一つ一つは、わざわざ映画の中の時間を一旦止めてまで意図的に披露されているワケではなく(「さもありなんだろ?」の「だろ?」がない、ということ)、あたかも一定のリズムの則っているかのように、淡々と積み重ねられていく。そしてその連続性を意識した描写の積み重ねによって、虚構の空間は時を刻み始め、そして時の流れのあるところには「風」が生まれる。少なくとも個人的には、この映画の中を流れる「風」を感じることができるし、「匂い」や「暑さ寒さ」も感じることができる。一つ一つのシーンの有機性、必然性ということでは、所々やや弱い気もするが、ここまでできればそれは一つの成果として喜びたい。小津やロメールの匂いをかすかに感じたような気がする。
●ゲイ、もしくはマイノリティを受け入れるということ
皆様の多くが、生まれてくる子供の行く末に一抹の不安を感じているようで。それはもっともだと思うし、正直私もそう思う。ただ、彼らに父親母親になる資格があるのかという意見には、「ある」と言っておきたい。
ぺペロンチーノさんに同じく、ここに描かれているのは漠然とした「可能性」だと思う。ただその可能性を漠然と提示しているだけではなく、背景には古くから続く「家族のあり方」という概念の崩壊が描かれているところに注目しておきたい。そして時代の変化と共に、個々の意識や事情も多様化するわけで、ドメスティックバイオレンス、家庭内離婚、シングル・マザーと様々な言葉が生まれ、結婚や出産のの高齢化や独身率の高さが進んできているように、古くから続く結婚や家族制度という一つの枠組みに、多様化する全てを押し込めることが限界を見せはじめ、徐々に変わりつつある現在だからこそ、「家族のあり方」の崩壊がリアルなカタチで背景として生きてきているように思える。その果てには彼らが描く可能性もないとは限らないのである。
さらにはゲイの人たちを受け入れる、ということ。それはただ個人レベルで「受け入れます」で済むことなのだろうか。もちろん個人の受け入れなしには成り立たないし、全てはそこから始まることではあるのだが、何かを受け入れるということは、それに対応すべくこちら側の意識の変化を余儀なくされること。個人レベルにはじまり「社会がゲイを受け入れる」というのは、つまりはそういう変化を求められることなのではなかろうか。それは障害を持つ人たちの住みやすいように、少しずつ社会や環境が変化をしていることと、何ら変わりはないように思える。
そして「新たな愛のカタチ」を本当に社会が受け入れたとすれば、結婚制度や家族制度も無関係ではいられなくなるのが本来だと思うワケで。この映画で提示された「恋人二人+母親+子供」という形は、社会がゲイを受け入れたとするなら、果てにはこんな可能性も出てくるかもしれないという、ひとつの極端な例とも言えるかもしれない。その途中には「ゲイは結婚できるか」とか、「子供の出来ない夫婦が養子を貰うように、ゲイ夫婦がそれをすることが自然になるだろうか」とか、いろいろな問題を通過していくワケだが。
さてこの映画の中の彼らはというと、子供を持つということに対する責任の意識は低い(というか、少なくとも現実的ではない)。まるで「家族ごっこ」をこれから始めるかのようだ。でも何もないところから何かを始めるには、まずは「ごっこ」、というか演技をすることから始めるしかないのではなかろうか。という意味ではこの拙さは「リアル」とも言えるかもしれない。現実味を帯びるハズが無い現在の社会において、映画の中でだけ妙に現実的に話が進んだら違和感を感じざるを得ないと思うし。血のつながらない親子関係が信頼を築いていくように、偽りから何かが生まれることもあるのだ。まずは「ごっこ」から始めよう。少なくとも自分たちを縛っていた既成の価値観の崩壊を、ただ胸を撫で下ろすだけではなく喪失感や悲しみと共に実感できた彼らには、その資格があるように思えるのだ(漠然と、だけど)。
と、長々と書いてきたけど、ただ単純に「こんな生活も楽しそうじゃねぇか」と思ってしまった自分も、やっぱダメダメなアダルトチルドレンなのだろうか(大汗)。
(2003/3/7)
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