[コメント] KT(2002/日=韓国)
またまた将棋に興味のない方には申し訳ない。「焦点の歩」とは、将棋の中終盤で、敵の駒が複数効いている空き升目に、一番弱っちょろい、前にひとつしか進めない「歩兵」を打つことを言う。自陣地は絶体絶命、敵陣地は難攻不落に思えたとき、ポツリとこの一番安い駒を打って、一発大逆転、ギャフンと言わせる(言うのか?)。この「焦点の歩」は、上級者がやる非常に高級、高度な技であり、妙手であることが多い
…のだが。この映画との関連性は?
この映画の登場人物は「歩兵」ばかりだ(金大中でさえも、だ)。では、彼らが二次元の世界を、縦横無尽に駆けずりまわり、戦うべき、向かい合うべき敵の「王将」は誰なのか、何なのか?それが見えぬのならば、とりあえずの討つべき、値打ちの“高い”駒は誰なのか、何なのか、どこにあるのか?
…それが、さっぱりわからない。(「朴正煕」あるいは「対国家」という“解答”は、あまりにも底が浅すぎるし、その浅さじゃ、ハリウッド映画の観過ぎだ。)つまり、どこが“焦点”なのかが、皆目わからない。だから、観客に向かって投げ出されたことばも、どれもが“妙手”になりきれずに宙を舞う。
ならば「歩兵」同士の“無意味”な“熱”のカタストロフィーを描くこともできたろう。たとえば、この映画自身が引用している『仁義なき戦い』のように。しかし、それを不可能にしているのは、この事件、この映画『KT』、阪本順治に存在すべきなのは、「争い」ではなく「戦い」であるからだ。だから、中途半端なのだ。映画が、ではなく、物語に対する姿勢が、中途半端なのだ。
たとえば、劇中多用される、極めて阪本順治的な、極めて映画的な空間表現も、それをそれとして意識せざるおえない不自然さに、中途半端さが如実に現れている。映画として、物語として、消化しきれていないから、ほとんど機能せず、そのヘボさ加減は否めない。
たとえ、そういう平面的なカオス、阪本順治的な“おかしみ”のある中途半端さ、映画表現(構図)としての面白さ、が、この映画自体の存在価値であるならば、残念ながら、私としては低く評価せざるを得ない。『顔』には適用できたとしてもだ。
「事件」は立体的、三次元的な存在であり、「人間」は宇宙的、多・無次元的な存在であると、私は考えるからだ。その事件と人間を、たとえば文学ならば紙の上の文字として、たとえば映画ならばスクリーン上の二次元の運動として、その限界ある世界にとどめるからこその、面白さがあり、それを観客が「読む」ことによって、観客の心の中で三次元なり多・無次元の世界へと再生され得るのではないのか。
その点で、この『KT』はあくまでも、スクリーン上の出来事どまりであり、少なくとも私の胸に、“世界”は再生されなかった。
“技”は素晴らしい、高級だ。だが、“戦い”はヘボだ。というのが、私の率直な感想である。
追記:
どうしても比較してしまうのが、この金大中誘拐拉致事件と同時代にアメリカで起こったウォーターゲート事件を扱った、アラン・J・パクラ監督作品『大統領の陰謀』。映画としてのタッチも違うし、消化不良な面もあるけれど、“技”も“戦い”も高級だと、私は思う。
〔★2.75〕
[with kazu, ワーナー・マイカル・シネマズ茨木/5.26.02]■[review:6.20.02up/誤字訂正及び追記:6.22.02up]
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