[コメント] 鬼が来た!(2000/中国)
スクリーンを通して客席に刺さる眼光の力が映画の持つ力なのだとしたら、これは『七人の侍』にも匹敵するのではないのか。 この作品を観ている間中、これは明らかに人生という尺度の中での極めて重要な体験だと強く感じながら見続けることとなった。 これを機に、過去の採点を見直し、5点映画の数々を格下げするなどということはもちろんしたくない。しかし、この映画に6点、7点、8点をつける術はないのだろうかとさえ思う。
映画そのものの持つ構成、描写等といった素晴らしさについては、拙文では全く表現できないほど素晴らしい。 感服。脱帽。絶句。
そして、戦争映画としても、過去に自分が釈然としないものを抱き続けた米国産の多くの作品とは一線を画すものとなっていた。 例えば『プラトーン』は、「集団の狂気」の中での迎合(悪)や葛藤(善)を片側の視点で描いた作品。 例えば『シンドラーのリスト』は、「強き悪者」と「弱き被害者」と「突然変異」の構図を描く作品に見える。
これらが、反戦メッセージを発しているかどうかが映画としての価値を決定するものではないにしても、少なくとも現代に通用する「反戦映画」として有効ではない、との思いを強く抱いた。
この作品のスタンスは何か。 それは、戦争を「構図」として描かないという姿勢である。 鑑賞後、我々はこの映画を通じて「日本軍」「村の人々」「国民党」「マー・ターサン」「花屋小三郎」「酒塚猪吉」といった存在を「善者」「悪者」「加害者」「被害者」として総括することができない。それはまさにチャン・ウェンの意図したところだろう。リウ老の「笑みを浮かべて死を迎える」逸話の挿入が、さらに解釈を複雑にする。
そして、民族、国家などの“一個の固まり”を「悪者」「加害者」として総括しないことにしか、無益な殺し合いを防ぐ手だてがないことをすでに我々は知ってしまっているのだ。 単純な善悪の図式を明解に切り分けないと、戦争映画はエンターテインメントとして成立しにくいことも承知だ。一方、ここで描かれる善と悪、強者と弱者、加害者と被害者の混沌はどうしたことだろう!そしてこの混沌の中で恐ろしいほどのエンターテインメントを実現しているこの映画の力とは何だろう。 これらを考え、そしてひとつひとつのシーンで自分が受けた印象をあらためて振り返ってみても、僕はこの映画の前にひざまずくしかない。
ここで描かれる日本人像はあまりにもリアルだ。それが、かつて各地で日本人が引き起こした残虐の根元とみるか、恥とするか、「男らしさ」とするか、謝罪すべきとみるか、それはわからない。この映画はそれらのことを強要しない。
ただ、見ながら暗澹とした気持ちになるのは、ここで描かれた日本軍の性格のすべてが、昨今騒がれる現代の役人たちの体質に見事に引き継がれているとしか思えないことだ。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (24 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。