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[コメント] タイムマシン(2002/米)

時空を越える「ファントム・ライド」。そこには「タイム・トラベル」の「映像」と数字があるだけで、観客が自ら時間と空間を把握するための手掛かりは何もない。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作も、オリジナルとなった映画も観ていないくせにエラそうに言ってしまいますが、私はこういうの納得できません。なぜ日捲りカレンダーみたいに全部見えてしまうのでしょうか。勿論比喩的な「映像」としてなら納得できます。カラクリ幻燈のようなものとしてなら。しかし微細に造り込まれたCG映像がぎゅー!どわー!という感じで見る見る変化(へんげ)していっても、正直私は何の魅力も覚えません。たとえばまだあまり映画も観たことのない、映像に毒されていないだろう子供がこれを観ればどう思うのでしょうか。少しは感心・感動するのでしょうか。一種の変化(へんげ)する絵画、その種の見世物として?

たとえば私が子供の頃、普通の視聴者として日本人の子供には最も慣れ親しまれているSFとも言える「ドラえもん」などはテレビで観ていたし、その物語を楽しんでもいたけれど、それは物語そのものに真実があり、また物語を語る手管に見るべきものがあったからで、描き出されるディテールから物語の基盤となる世界そのものの成り立ちを納得していたわけではないと思います。そこに描き出されるディテールはその作品(物語世界の内部)でだけ通用する作劇上・演出上の約束事で、それに則って語られる物語の方にこそ観るべきものはあったのだと思います。(基本的に大小色々な道具が物語の発端にはなるのですが。)

この映画が物語る、タイム・マシンというキテレツな機械に乗り込んで過去と未来を縦横に旅してまわるという御話のネタそのものは古びるもことなく、今もたえずそのヴァリエーションを無数に生み出しつづけているとしても、それを言葉の真の意味で"リメイク"して具体的に見せていこうとする時には、世界のありかたと現在の映像受容のありかたの距離を勘案しつつ、もう一度構成し直していくべきなのではないのでしょうか? 映画は単なる見世物であっても構わないし、本来そのようなものとしてあった媒体だとも思いますが、それは世界のありかたとその時代の映像受容に即したものであってはじめて、その本来の可能性を存在するものになれるのではないでしょうか。要は、この映画の場合、見る見る変化(へんげ)していくCG映像にそんな(魅)力があったかどうかということ、更にそれを看過したとしても、物語を語るその手際にどれだけ今それを語ることに関して謙虚になる姿勢があったかということだと思います。それともそれは、場違いな場面で無用な倫理を説くことに等しい無駄なのでしょうか。

この映画の物語では、過去は変えられないということになっていますが、それはどうしてなのでしょう。主人公のアレクサンダーは、現に公園で死ぬはずだった彼女を、今度はべつの場所で死に至らしめています。これだけで充分過ぎるほど過去を改変してしまっていると思うのですが、違うのでしょうか。それとも人の生死だけは変えられないということなのでしょうか? だとしたらそれはなぜでしょうか。人の生死を司る絶対的な何か、神様でも存在しているのでしょうか? それだけで既に物語に暗黙のうちに特定の世界"観"が前提されてしまっていることが露わになります。時空を"越える"タイム・マシンも、時空を"超える"ことは出来ないというわけです。それは超越的で絶対的な存在者、神のようなものを信じることと違いがありません。それはよいとしても、時空の問題が重要な鍵になる物語を語っておきながら、その種のことに無自覚、あるいは無責任なのでは、もうそれだけで物語は説得力を失ってしまいます。そこから帰結するのは現行の在り来たりな映像効果に依存しつつ、芸もなく過去の物語を粉飾し直す御都合主義です。

その昔、擬似的に列車の構造を模した劇場に、実際に走行する列車の上から撮影した沿線の車窓風景を上映して楽しませる「ファントム・ライド」という見世物があったそうです。今で言えば遊園地等にある映像と音響・体感マシーン等の組み合わせて仮想体験を楽しませるヴァーチャル・アトラクションみたいなものだと思います。見る見る変化(へんげ)していくCG映像のスペクタクルは、言わばそのファントム・ライドの車窓風景のようなものかもしれません。それは手応えのない流れ去っていく映像によって有り得ない旅路を空想させる装置として、観客の目を楽しませるものではある。しかしそれが映画なら、映画は更にその上で物語を組み立てねばならない。流れ去っていく「映像」とは別の次元で、時間と空間を構築して物語を語らねばならない。

適確な案内&話相手を務める、半永久的な知的存在者である人工知能の図書館司書。それとは逆にレトロなタイム・マシンのモチーフ(やはりあんなので時間旅行できるとは思えん…)。未来の地球を地中を徘徊しつつ支配する鼻息荒いモーロック(怖い)や、はたまたエロイ達の住む川縁絶壁に設えられた住居(単純に絵図としては美しい)や、あるいは古代語として学び直されることになる英語。物語上で有機的に連関し合ったりはしないものの詰め込まれた断片的な要素としては見ていて楽しい。

(評価:★2)

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