[コメント] いつか晴れた日に(1995/米)
キャラを立てるために、美術の構造的遮蔽を利用してフラストレーションが溜められる。論理的な手管は感情に物証を伴わせるからこそ、馬面の姉に卵形の妹を組み合わせる異種格闘が不審である。
多様な球体は男たちの組み合わせに対応している。性質が交差しないふたりの男の、目に見えない共通項が探索されている。それは文弱とオッサンが最終勝利する語り手と受け手の邪念に他ならない。
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