[コメント] 春の日は過ぎゆく(2001/韓国=日=香港)
映画を見終った人むけのレビューです。
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そうかもしれない。でも、この男は大嫌いだし女の方はよーく理解できる。そのあたりの共感度、思い入れ度は、人それぞれの立ち位置によって全く見方の変わる映画ということなのだろうけれど、実はそんなことはどうでもいい。
男性の方は、崩壊しつつある韓国の伝統的社会の中での、未熟な自己中心的な自我(だって鍵でギィィィだなんて!いい大人がありえないでしょw)であって、新しい時代の感覚と旧来の価値観との間で人格が引き裂かれている。その恋愛観も分裂気味で、一方で新しい感覚の女性に惹かれるくせに、他方では旧態然と女性を所有することを望むばかりで、自分をうまく表現することができない。
女性の方は、経済発展とともにすでに血縁・地縁が希薄になった韓国現代社会の中で、自分の居場所を必死に探す「近代的自我」であって、気ままで移り気であるが繊細で多感であり、その微妙な感情のゆらぎは映画の中で異様に正確に描かれている。「俺がラーメンに見えるか?」などというバカ丸出しな横暴さをむき出しにする男と付き合っている場合じゃないのだ。
ラストで、彼女は彼にではなく、彼の祖母(=滅び行く古き良き世界)に贈り物(鉢植え=人工的で限定的な生命)を渡すが、祖母はすでに亡くなっていることを知らされる。これからも彼女は漂い続ける他はないのである。いい映画だと思う。
全編に亙って、ユ・ジテと比べてイ・ヨンエのアップがほとんどないという演出は、男の苦悩と女の存在の危うさを効果的に意識させ、この監督がただ者ではないことを示している。この人、どうにも旧来的な意味での「男性的」なところがほとんどない。韓国人特有の(と思える)周波数の高い繊細さを純粋培養的に体現したような監督だと思う。
演出としては、「音を聴く」というモチーフからしても佐々木昭一郎の1980年の名作「四季・ユートピアノ」の繊細さを明確に思い起こさせるような静かで美しいシーンが多いが、ドラマの構造としては、むしろ変貌する社会の中で変わってゆく家族の関係を受け止める人々を描く小津安二郎の系統に近いと感じる。「キムチ漬けられるの?」、「もちろんよ」、「父親に会ってくれ」、「私、本当はキムチ漬けられない」などという食卓での秀逸な会話は、まさに小津/野田調そのものではないか。そういえば、イ・ヨンエの笑顔にはどこか原節子を思わせる不自然な品の良さがある。
ホ・ジノ監督は、言うなればこの二つの要素、小津の骨太なドラマと佐々木の繊細な演出を統合させることを意図しているようにも思える。それは、映画を製作する上で、もっとも高い志のひとつであるに違いない。その志の高さに対する礼儀として、評点はあえて満点から星をひとつ減らします。これはまだまだ序の口であると願って。
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