[コメント] ボウリング・フォー・コロンバイン(2002/カナダ=米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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被害青年とマスメディアを引き連れて押しかけられれば銃弾の販売ぐらい中止しますよ。メディアに逆らって不買運動くらうより、悲惨な事件に誠実に対応する企業、になった方が売上伸びるもの。経済合理性からみてもKマートにとってみれば当然の選択。・・・でも、銃弾は他でも買えるんでしょ、きっと。
亡くなった少女の写真を手にチャ−ルトン・ヘストンのもとへ突撃して、彼の老醜をカメラにおさめる。そりゃ画になりますよ。かつての英雄も今はあの悪人面だもの。でも本当に糾弾されるべき相手は防弾バリア兼広告塔の彼の後ろに隠れてる奴。・・・で、バリアが使えなくなったら新しくとりかえるんでしょ、きっと。
ドキュメンタリーという方法を選ぶなら、カメラの照準器が問題の本質を捉えるまで、そして狙うべきシステムやそれを支えている人物に向けて一発でもいいからマイケル・ムーアの放った弾丸が命中するまで、粘り強くカメラを回しつつけるべきである。
より多くの観客にそれを観てもらうための方法論考えるのは、それからの作業。現象だけとらえて自説を分かり易く組み立て披露したところで、所詮問題と対立するもう一方の価値を示して見せただけに終わってしまう。
もし、より多くの人に観てもらえるのなら「それだけでも充分じゃないか」というのなら、ドキュメンタリーという方法をとる必要はない。フィクションで充分だ。劇映画の作家たちは、みんなそうしている。
分かり易いというのは決して悪いことではない。しかし本質を曖昧にしたまま分かり易さを演出すると、ちょうど石原慎太郎や久米宏がそうであるように華やかさとともに、どこか怪しさと胡散臭くささが漂い始める。
より誠実に、より真摯に問題に取り組むのであれば、そういう誤解を生むような性急な演出は避けた方が賢明だったと思う。本来、ドキュメンタリー映画とは金をかけずに、時間だけはたっぷりとかけて作るべき市井の方法論だったはずだ。金が使えるドキュメンタリーは「国家予算」で作るオリンピックの記録映画くらいのはずだよ。
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