[コメント] 座頭市(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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<市は本当は目が見えているのか、それともやはり見えないのか?>
<市は善を体現しているのか、あるいは悪なのか?>
<そもそも市は何者なのか?どこから来たのか?>
本作を鑑賞するにあたって、勝新太郎主演第一作目の『座頭市物語』を先に観たが、それに比べ北野作品の座頭市は上記三つの命題に関して意識的な作品であり、それがベネチアでも芸術作品として一定の評価を得た所以なのではないかと思った。
目の見えない(可能性を有する)者が滅法強いという設定にある程度の説得力をもたせるため、殺気を持って市に接近した者は誰であろうと有無を言わさず斬られてしまう。それは武の座頭市でも忠実に継承されている(当然といえば当然だが)。このルールは重要で、座頭市を中心とした同心円状に世界観は歪められ、その円の内では市の思うがままに全て展開される。
本作でしつこく何度も繰り返されるサイコロ博打のシーン。勝新の座頭市では、目が見えない市への侮りを逆手にとった、彼の抜け目無さを示すために使われた一つの見せ場である。それに対して本作では、ただただ市が的中させていくところと、的中の秘訣を探ろうとして暗中模索するガダルカナル・タカの姿とが、執拗にそして無機的に繰り返されていく。ここにはやはり北野武の戦略が介在していたのだと思う。
<丁か半か>この二者択一の問いは、最初に挙げた二つの命題、<目が見えているのか見えていないのか>、<善であるか悪であるか>という問いとパラレルに考えられないだろうか。そう、いろいろ試しても結局博打的中のカラクリを見破れなかったタカと同様、観る側にはこれらの問いへの答えを見つけることなど初めから不可能なのだ。なぜなら、市の影響圏の中では市が絶対だから、市にしか知りえないルールが存在するからである。北野武は作品中、このルールを巧みに用いた。結局、目が見えるのか否か、善か悪か、何者なのか、こうした命題は市の心の中に仕舞われ、永遠に解けない謎のまま残ってしまう。(それは『2001年宇宙の旅』のモノリス同様、とても映画的な仕掛けでもある。)そして、自身の謎について語ることのできない(語ることが許されない)市は、それゆえに皆が踊る祭への参加が許されず、逃げていくようにまた別の街に流れていく。彼は孤独の象徴でもある。
と、こう書いてしまうと絶賛しているようにも見えるが、実際のところ、エピソードそのものは薄かったと思う。善か悪か不明にしていたほうが、本作の命題は際立っていたはずだが、自分に振りかかる火の粉を払うだけではなく、あの姉弟の危機の際に市が自分からその場に寄っていったくだりが、まるで都合のいいときにいつも現場のすぐ近くにいる黄門様ご一行のようで、個人的には中途半端に感じた。市以外では、浅野忠信を打ちすえた素浪人の、あの尋常ならざるぎらぎらした顔つきが記憶に残っただけであった。(調べてみたら無名の役者だった。)
と、またまた休むにも似た、下手の考えを書き並べてしまったが、何よりも本作はリズムの映画であったと思う。鍬を土にザクザク入れる音、大工仕事のトンテンカンの音。北野作品でこんな感じの気持ち良さは初めてだ。(これだけ書いておけばよかったのかな。)(★3.5)
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