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[コメント] 座頭市(2003/日)

タケシによる少年ジャンプ風ネオ時代劇――快作!
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







キングコング対ゴジラ』という映画にあって、伊福部昭という音楽家が映画音楽に革命を起こしていたことは、あまり世に知られていない。というか、俺にしか知られていない。この映画には原住民が出てくるのだが、キャストは全員日本人であり、彼らをして原住民に見せる手法は、最早前世紀の遺物となった黒塗りだった。昨今の映像文化に慣れ親しんだ若人諸君なら、一目見て吹き出すこと請け合いだ。けれどもその嗤いは、彼ら日本人顔をした又いかにも不自然な褐色の肌をした原住民達が一度踊り出した瞬間に吹き飛んでしまうだろう。伊福部昭の奔放かついかにもネイティブな、にもかかわらずアヴァンギャルドなフレーズが鳴り響き、本多猪四郎がその音と歌と踊りが最大限活かされるようにシネマスコープに納めた瞬間から、彼らは紛れもない原住民に変貌するからだ。音楽と演出がビジュアルの限界を凌駕した最上の例だ。これほど創造的に絡み合った音楽と演出を、自分は知らない。

前置きが長くなった。版『座頭市』におけるタップダンスは、上記の映画音楽とは真逆の代物だ。現代に存在しえないもの(原住民だとか、昔の人間だとか、その営みだとか)を物理的な限界を超えて表現するというリアリティに対する映画的葛藤をまるっきり放棄した音楽であり、演出だった。そ映し出されたものは、もはや“町民”でも“百姓”でも“侍”でもなくなって久しい現代人の顔、寄り、顔、引き、スタイル、寄り、顔……はどうしたことか、それらを臆面もなく見せてしまう。

黒澤明は『影武者』でも『』でも、極力俳優の顔に寄らなくなったものだった。言うまでもなく、彼らが昔の日本人の顔でなくなっていたからだ。極論してしまえば、マクドナルドが日本に乱立し始めた辺りから、日本人の顔で満足な時代劇を撮ることは不可能になっていたのだろう。この映画にあって、の映像感覚が時代劇のリアリティとガチで向き合うのを拒否したであろうことは想像に難くない。むしろ時代劇もどきに身をやつし、あくまで現代人によるネオ時代劇として見せてしまう、いかにもらしく合理的な発想だ。

もちろん言うほど易くはない。ともすればジャンプの漫画の様な古今折衷が実写と噛み合わず、軽薄なご都合主義に陥ったかもしれないのだ。それが回避されて見えるのは、「古」と「今」の糊付けが巧みになされていたからだろう。作品が本質的に漫画であるなら、こと絵に関してのみ映画らしく振る舞ったところで、美味くなるわけがない。糊となる演出にも漫画やホラー映画の手法などが用いられている。たとえば賭場でのひと暴れ、闇の中で舞う刃と切り口のみを見せ、なんと市自身を見せない演出――達人を化け物に見せなおかつ市を文字通りエイリアンに見せる革新的な殺陣。たとえば浪人(浅野忠信)との決着、浪人の目論見と慢心をカットにしてしまう漫画的演出だが、それが直後の市の居合いの速度と浪人の早計と斬られる衝撃とそれでも斬り付けられた市の肉感を強調する。既存の殺陣を記号的に解釈し、それを漫画や娯楽映画の手法とミックスすることで産み出した新たなリアリティだった。

作劇に関してもそうだ。開けっ広げに見せるコントも、テクノ・ミュージックの鼓動に開き直った繋ぎも、人物造形も、最後の開眼も、どれもが潔いまでに漫画的だった。だが、コンティニュティを漫画のノリに頼り切っても、波のピークに顔を出す映画的瞬間が実に際立っていたのは、漫画の喜怒哀楽まではなぞらなかったからだろう。それで失敗したのが『あづみ』だ。『座頭市』が漫画的でありながら映画的でいられたのは、「怒」が抑えられ、「哀」が描かれていないからだ。漫画のリズムで四つを描くには、映画の尺は短すぎる。だから漫画の映画化は成功しない。この映画で唯一気に入らないのは、回想で下手に「哀」を描こうとした点だ。ベタでくどい。は回想だけが何故か下手だ。

(評価:★4)

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