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[コメント] 黄泉がえり(2002/日)

こりゃ驚いた、塩田明彦も黄泉がえりだった、腰がぬけた。(レビューは作品後半部分の展開に言及)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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観にいっておいてなんだが、初めからさほど期待はしていなかった。監督の名前よりもテレビで見かける人たちの名前ばかりが喧伝されるのを目にするにつけ、作品自体もいろいろ歪められているだろうなと覚悟しながら、それでもそのなかに眠っている作家性を感じようとしていた。

ところが、前半部、これが大資本の入った作品であることを忘れさせるような役者の繊細な演技。塩田明彦の演出は本作でも光っていた。役者と役者のあいだの空間の広がりを感じさせた。

また、作品のテーマ性にも惹かれた。「黄泉がえり」の人たちは、蘇らせた人の思い出の中の年恰好で出現する。だから蘇らせた人はさほど驚かずに彼らの存在を素直に受けとめるのだろう、それはもともと彼らの中に存在したイメージだから。これは、塩田が『惑星ソラリス』のテーマに挑んだ意欲作だ、メジャー作品だと侮ることなかれ、期待はバブルのように膨らんでいった。

ところが、そんな私の脳天を金属バットでがこんがこんと冷酷に殴られたかのような、予想外の「いらぬ」衝撃。最近の映画は、冒頭で示した前提をくつがえすようなどんでん返しの展開を、必ず後半部に埋めこまなければならないプレス・コードでも敷かれているのだろうか。多くの人はそうでもなかったのかもしれないが、私は一気に醒め、観る目が急変した。(先の筋を予想して観ることがないので、いつもこういうのには騙される)

考えてみれば、はじめからいろいろ怪しげな点はあった。そもそも「黄泉がえり」が期限付きというのは、日本的な潔さにも映る一方で、その実、重要なテーマを巧妙に回避している。もちろん『惑星ソラリス』と一緒である必要はないのだが、それでも黄泉がえりが、蘇らせた人の恣意的なイメージをもって出現するという設定である以上、それは本当に死んだその人でありうるのか(蘇らせた人が知らない、その人の姿が出てくることはありえない)、また黄泉がえりの人たちの自我の有無やその在り方についてなどは、やはり問われるべきだろう。

さらに、本当のドラマ性は、すでに死んだ人のいない新たな生活が始まってから、死んだはずの人が現れたとき、どのように現実が展開していくのかというところにあると思う。山本圭壱石田ゆり子哀川翔のエピソードはそれを期待させたが、「期限」がついたことで「きれい」に、言い方を換えれば都合よく結びをつけられた感がある。そういう筋を草なぎ剛竹内結子伊勢谷友介のエピソードで観たかった。個性派の伊勢谷を使っておきながら、あんな片づけ方をするとは、たいへんもったいない。

ギャング・オブ・ニューヨーク』でもそうだったが、作家性と資本の論理のどちらかに徹するのではなく、どっちも無理して両立させようとすると、結果いびつな作品ができあがってしまうのではないか。とはいっても、それは私個人の勝手な思いこみかもしれず、そういう意味では私はレビューの最初の一段落での警戒心を忘れ、作品前半部を観ただけで、勝手に今までの塩田明彦を「黄泉がえらせて」いたのかもしれない。冷静に観ていれば、腰がぬけることもないのだろう。(★2.5)

(評価:★2)

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