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[コメント] 昭和残侠伝(1965/日)

内容云々以前に、このタイトルのカッコ良さがまず第一に挙げられる。声に出して読みたい日本語とは、こういうことを言うのだ。 2007年2月13日DVD鑑賞
ねこすけ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







カッコイイの一言に尽きる。ヤクザ映画の代表の一つ。これぐらい見ておかないで、どうするのだと思い、ビデオ屋で若干軽い気持ちで借りたのは良いが、それがあまりに失礼であったことを思い知る。なんて立派な映画だ。というか、これこそまさに映画だ。

映画を見ていて「これが映画だ。どうだこの青臭いガキめ、東映の底力思い知ったか」と突きつけられているような、そんな迫力が1時間半に渡って持続し続ける。これを公開当時に見た人たちは、高倉健のかっこ良さとか、ヤクザ映画だとか、映画以外他に面白いことがなかっただとか、そういうミーハー根性とか当時の社会状況とか、そういう理由で支持され、シリーズ化されてきていたものだと――実は少しばかりそんな風に思っていた。失礼だとは思うが。

しかし、面白い映画に理由は無い。この映画は、問答無用に面白く、そして「続きがあるなら是非見たい」と思ってしまう映画だった。そして、事実俺は鑑賞直後、ビデオ屋に走って行き(勿論、劇中の印象的な台詞を一人でぶつぶつ呟きながら)続編をしっかりとカゴに投げ込んだのだった。

若干余談になるが、この映画を単純にヤクザ映画として割り切って見ることが出来なかった。

この映画の大まかな柱は、エンコ浅草の伝統ヤクザ「関東神津組」と、それに対立する台頭して来た新興ヤクザ新誠会の対立構造という形をとっている。しかし、その世代間対立的側面以上に面白いと思うのが、地縁(縁故)至上主義と経済至上主義との明確な対立軸であり、或いは闇市(露天)と「屋根つきのマーケット」という前近代と近代的商業主義との対立である。

特に「マーケット」という言葉(考え方)によって右往左往する関東神津組の内面が非常に奥深く、単なるヤクザ活劇として以上に深みのある物語になっている。関東神津組は、もともと縁故を大事にして露天商を続け「手前の庭のためならタマ捨てる覚悟は出来てる」と大見得を切って、その地縁(縁故)を守り続ける。そこには、前近代的な古臭い「横の繋がり」としての考え方があり、高倉健が、金を滞納してる露天商に「いいんだよ」と滞納を猶予してやる姿に象徴されるように、利益至上主義という概念は存在しない。

これに対して、新たに台頭して来た新誠会の面々は、往々にして地縁(縁故)を「古臭いもの」と見なして、「マーケット」を開くことにする。そして、その構想の「正しさ」と地縁(縁故)の「古臭さ」に同意し始めた人々は、新誠会の方に親会社を変更していく。

そんな時、ひょんなことから有志のカンパによって、関東神津組も「マーケット」を開くこになるわけだが、この「マーケット」を開く時、高倉健は、「もうこういう家業はやめにする」という風なことを言ってのけ、事実上自らの「時代遅れ」を認め、自由主義経済に方針転換を行う。

つまり、結局の所、関東神津組は、新誠会の方針の正しさを(彼らの手段はともかく、目的を)認めたのである。そして単なる「縁故」だけでやるのではなく、マーケットの中での自由競争・切磋琢磨を奨励する方針に転換し、「これからの浅草はみんなの手で築き上げて行って下さい」と喝破する。。

この「古臭い」縁故を捨て、自由主義に走る辺りが、戦後のラディカルな思想を体現している風で、少し面白かった。

戦争で焼け野原となり、東京湾が浅草からでも望める現実(冒頭シーン。先代が暗殺されるシーン)から、高倉健が新・三代目となり、結果的に自由主義・市民主義の下に、関東神津組(大きな政府)を解体し、徹底的な自由主義の理想、浅草という街の復興を「マーケット」という西洋語の中に――西欧的近代的価値の中に――見出すというところが、戦後日本が、「戦後民主主義」という(ある種の欺瞞に)傾倒し、そしてその復興を「自由」の中に見出して、一人一人の「モーレツ」ぶりでがんばってきた――その歴史の始まりを、原点を見せ付けられたようで、非常に興味深かった。

この映画が描いたのは、戦後日本の出発なのではないだろうか。

卑劣な経済至上主義(新誠会)のやり方に耐え忍びながら、描かれたのは、市民中心の自由主義的経済を至上命題として、あくまで民主主義を市民主義を標榜する――それで居て地縁(縁故)をしっかりと残してゆく――日本(浅草)主義的――縁故主義的経済ではないだろうか。

かつて日本的雇用慣行(終身雇用、年功序列、企業内訓練、ジョブローテーション等々)がもてはやされた時に指摘されたような社会構造が、この時代に出来つつあったことが、この作品から見て取れないだろうか。

実を言うと、新誠会は、この作品において「悪役」とは描かれていないのだと思う。少なくとも、俺は彼らが「卑劣」でこそあれ、さほどの「悪」とまでは見えなかった。結局、彼らの善悪――その判断は、単に観客に委ねられているだけであって。事実、新誠会は最低で卑劣なことを行っているが「そのやろうとしていることは間違いじゃない」などと劇中でも言われているし、事実、関東神津組も「マーケット」の理想に浅草の未来を見出したのだ。

問題は、その手段である。金と法律――合理主義――を徹底した近代西欧的価値観(勿論デフォルメして描かれてはいるだろうが)に対して、縁故の街浅草の老舗の打ち出した、市民中心主義的自由主義。

果たしてどちらが素晴らしいだろうか。そう問いかけてるのではないだろうか。

奇しくも昨今のネオ・リベラリズム社会に於いて、この非合理主義的な自由主義(縁故の街・浅草的資本主義)と徹底的合理主義的な自由主義(新興ヤクザが金と法律で物を言わせて、渡世の仁義を無視して行われる「自由主義」)との対立は、決して無視できない構図ではないだろうか。

僕自身は、上述したように、この作品に登場した新興ヤクザ・新誠会を「悪」だとは思っていない。だからここでは、どっちがどうだという議論をする気は無い。

ただ、この対立軸は現代にまでもつれて持続して、未だにゴチャゴチャやりつつも、最終的には後者の方――縁故の否定の、徹底した合理主義・自由主義――に傾倒しつつあるのではないだろうか。それもそれで正しい部分もあるとは思うが、一つだけいえることは、高倉健が命を賭けてまで殴りこみに行って守ろうとしたのは一体何であったか、ということではないだろうか。

それは、紛れもなく縁故――引いては、“エンコの街・浅草の”「マーケット」という、新しい社会ではないだろうか。即ち西欧的合理主義とも、それまでの前近代的日本社会とも違う、戦後の新しい社会像――市民自らが切り開いていく未来ではないだろうか。

そこには、純粋な未来が見てとれる。

(評価:★5)

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