[コメント] 鏡の女たち(2002/日=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画を観て、個人的に一言何かいうとすれば、それは「人間」の喪失。
アイデンティティの喪失、そしてそれを探す観念的な旅を続けて訪れる広島の地。そこで待っていたのは、もっと具体的で生々しい、人間そのものを蹂躙されたかのような、被爆者の写真の数々と、その悲劇の物語であった。原爆が落とされることによって起きた悲劇というのは、具体的、抽象的な意味あい双方を含めて、「人間そのものへの蹂躙」の一言に尽きるのではないか、という気がする。
そして、アイデンティティの喪失を生んだのは、記憶の改竄。しかしそれは、戦争が生んだ様々な痛みゆえの改竄でもある。そしてその改竄が世代を越えて繰り返されるうちに、本来の戦争の記憶が喪失してしまう。美和(らしき女)はその象徴ではないかと思う。痛みすら遠い昔のかすかなうずきでしかなくなってしまう、全ての実感が失われてしまう、そのことの(人類としての)深い悲しみ。
そして、再び肉親と思しき人々の前から姿を消す美和の影。しかし彼女は母子手帳を携えて姿を消した。ここに監督のか細いながらも切実な祈りのようなものを感じた。受け継がれることに対する切なる祈り。そんな余韻を残して映画は終わる。安易な帰着を決して許さなかったことに、何よりも監督の誠実さを感じた。そう、決して永劫終わることはない、いや、終わらせてはいけないのだ、と。
心理の襞や深層の記憶を分け入っていくかのような、細く奥まで伸びる遠近の画面。光が入り難い深い苦悩を秘めた室内風景と、それでも一瞬だけ意識を照射して消える光のニュアンス。決して安易に向き合い交錯しない視線。会話でありながら、独白のようでもあるセリフの響き。全体を通しての印象は、何かを踏み外すまいとするかのように、一つ一つ手探りで作り上げたかのような細心さと、謙虚さを感じた。やや頭でっかちにも思えるけど、決して分かった振りだけはするまい、そのような戒めを常に感じ、そして実際それに似たことをメイキングでも言ってたことが、印象に残った。原爆どころか戦争すら知らない自分にとっては、その姿勢に何より深く共感できた。
(2006/8/13)
追記:よくよく考えてみれば、これは「女性」に捧げる映画でもあったことを忘れてました。ラストの一色紗英のセリフ、「ママと美和が流した血、そしてその血は私の中にも流れている」、それが全てを要約している気がします。あくまで虐げられがちな弱者としての「女性」を描きながらも、それでもあなたたちは血が覚えている記憶を受け継ぐことができる、そんな存在でもあるのだ、と。
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