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[コメント] 闇の子供たち(2008/日)

ここまで正々堂々と真っ向から恥じらうことなくつまらない日本映画も今どき珍しい。映画を完成させようという真摯な態度に頭の下がる思いがするほどだ。
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この深刻な問題を「告発すべきである」という想いと、「しかし、私には告発する資格がない」という想い。この二つの感情のせめぎ合いが見せた夢のような、無内容な作品だった。

 告発することが必ずしも正義なわけではない。何よりも大切なことは、こういう問題をどう捉えるかという視点・立ち位置だ。それによって、告発するのか、ただ実態はこうなっているとゴロリと投げ出すのか、あるいは他の展開をするのかという、物語のスタイルが決まってくる。端的に言って(最後まで見るとわかるのだが)、主人公は、幼児を殺して臓器移植に供することは悪だ(←当たり前だ)が、幼児買春までは良いと考えている人物である。それが最後の最後で、やっぱり幼児買春も悪だったと気づき、罪にさいなまれて自殺する。だが、どうしてそのことに突然気づいたのか、映画を見ててもさっぱり分からない。物語から演繹的に帰結されない。

 この映画の場合は、主人公(江口洋介)が幼児買春に手を染めているという立ち位置からスタートし、それに寄り添って物語を進めていくのでないかぎり、まったく意味がないと思う。江口洋介だし、正義感にあふれた新聞記者っぽいし、ま、常識から考えて、主人公が幼児買春をしていたとは大いに意外である。≪意外性≫は、映画が観客の注意を惹きつけるために大変重要な要素だ。だが観客は≪意外性≫を見に来るわけではない。≪意外性≫は、自分の伝えたいことを効率よく観客に伝えるための方便であるはずだ。だがこの映画から≪意外性≫を取ったら、ほとんど何も残らないのである。

 物事を語り進めるのに、一般的な型枠にあてはめて語るのは、決して悪いことではない。オリジナリティという面で評価はされないかもしれないが、それで自分の伝えたいことを効率的に主張できるのであれば、それを採用すればいい。だが、幼児を殺して臓器移植に供するという深刻な問題(と言っても、このつまらん映画を観るかぎり、そんなことが実際に起こっているとはとても思えないのだが。実際に起きているのだとしたら、そう思わせたこの映画は罪である)を採り上げるにあたり、お涙頂戴形式で描くのがいいのか、しかもどんでん返しによってそんな形式すら否定してみせるスタイルのがいいのかについては、よくよく考えた方がいい。率直に言って本作は「お涙頂戴式」としても不徹底で、その覚悟の無さに一層苛立ちがつのる。

 おそらく、阪本順治自身が、自分の演出技術の低さを自覚している。だから型枠的なドラマツルギーに依拠するわけだ。まともな人間であれば、そのことに衒いを覚えるのは当然である。だがその衒いは、観客に見せるものではない。そんなことをしてる暇があったら、さっさと演出技術を磨け、と言いたくなる。女衒ならぬ≪児衒≫の兄ちゃんが、農家(?)の前で所在なげにたたずんでいるというファーストシーンからして退屈の極みだ。現代人のたるみきったエゴが露呈した傲慢な演出である。

 正直なところ、この映画の撮影現場には、「いま自分たちはいい作品を作っている」という実感が伴っていただろうかと疑問に思う。そうでないとしたら、よく途中で投げ出さずに、映画を完成まで漕ぎつけたものだ。そういう映画作りをまっとうせんとの思いには感心する。

 そこに感心したからといって、映画の評価が上がるわけではないので、最低点をつけることに変わりはないのだけど。

50/100(11/04/09記)

(評価:★1)

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