コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 孤高のメス(2010/日)

人の死生観、倫理観としてでなく、法に抵触するかしないかという観点で脳死移植問題を採りあげる姿勢に、医療業界の浅ましい本音が透けるようで興醒めする。
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 問題はそこにではなく、重要な話は病院の屋上でなされたり、日記形式の独白のはずだったのに「これが先生に渡した最初のメスだった」みたいな回想形式の独白と交えてしまったりなどの、東映調ドラマツルギーの稚拙さにあるのだと思う。ドラマツルギーが稚拙で、複雑な諸要素を盛り込めないがために、キャラクターがリアルに立ち上がらない。キャラクターがリアルでないから、結果として、出来損ないのプロパガンダみたいな未熟なメッセージを内包してしまったのだ。

   ◇ ◇ 

 私の興味の一点は、こんな男が本当にいたのかということに尽きる。あるいは、存在し得たのか。

 当然ながら、「脳死」が人の死であると認められていない時代は、いくら医者が「この患者は脳死状態である(医師は<全脳死>状態だとか小賢しい言い方をしていたが)」と主張したところで、<生きている>人間の体にメスを入れて命を奪ったことになるわけで、それはれっきとした殺人だ。周囲の人間にも、法に触れるかもしれないから係わりたくない、ではなくて、それ以前の問題として、まだ生きている人間を積極的に死へ追いやってしまうことへの倫理的な抵抗感が存在するのである。警察機構であれば、殺人行為を見過ごすわけにはいかないので、手術そのものを阻止するはずだ。さらに言うなら、今でこそ家族の同意が得られれば脳死状態の患者から臓器を移植することは認めれるようになったが、脳死移植が始まった頃は、生前の本人の意思表示――自分が脳死状態になったら臓器を移植されても構わないという――が絶対必要条件だった。この映画の医師はフライングを犯しているので、そういう規範にも縛られなかったとは言えるかもしれないが、それらの議論は当時からなされており、それを知らないということはあり得ない。なんの障害も、心理的葛藤もなく、オペを決意するなんてのは、明らかにおかしい。

 また、現在では、脳死患者から摘出された臓器は、一旦救急医療センター等の管理下に置かれるはずで、摘出を執刀した医師が、移植先の決定に関与するなんて事態はあり得ないはずだ(移植先を知ろうと思えば知り得るのかもしれないが)。これは企業の例でわかりやすく例えれば、営業部(金を使う)が経理部(金を管理する)の金庫の鍵を管理しているようなもので、それで直ちに問題があるとは言えないが、対外的に高いモラルを求められる組織は、そういう状態にはしないものだ。人の生死を扱う医療機関は当然ながら高いモラルが求められる。他に困っている患者がたくさんいるかもしれないのに(当然いるはずだ)、一医師が自分の都合で勝手に移植先を決めてしまうというのは、脳死移植が行われている現在の価値観から考えてもおかしい。

 東映調のドラマツルギー、というよりドラマツルギーの稚拙さは、エピソードやシチュエーションを積み重ねて人物を描くということをあまりせず、なんでも台詞で説明してしまうのでかえってわかりやすい部分がある。この映画の医師は、「野心がない」と二度ほど説明されていたので、野心は無いのだ。それはいい。だが、慣習に捕らわれたり法を犯すリスクを顧みたりせず目の前の命を救うことに全力を尽くすなんて格好いい話じゃない。日本人であれば当然持っているはずの死生観、倫理観まで持っていないのはどうしてなのか? それがおかしいと言っているのではない。映画から、それらに関する示唆がまるで得られないと批判しているのだ。

 目前の自分の患者を救うことだけに取り憑かれたかのような当麻医師が、一般的な社会生活のディテールには無頓着であるという風情は若干描かれていた。だが40年以上前の映画である『白い巨塔』でさえ、野心むき出しの財前教授に対比して、純粋正義君な里見教授の無神経さを批判的に描けるだけの洞察が示されている。これでは明らかに後退だ(別の映画なので、比較しても詮のないことだが)。

65/100(11/01/26記)

堤真一の演技は、さすがに目ん玉だけではそんなにオーバーな芝居は出来ないみたいで、抑制が効いていて良かった。

(評価:★2)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)緑雨[*] たいへい

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。