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[コメント] 乱れる(1964/日)

結局成瀬はこの映画で、恋愛というドラマの形式を、人のモラルという制限を炙り出す炎として使ったんじゃないか。
G31

 「ひとあし踏みて夫思ひ ふたあし国を思へども 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや 朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ」

 今の大多数の人の感覚ではわからないのかもしれないが、昔はこういう歌を詠んだ人がいたのである。夏目漱石の永遠のマドンナとしても知られる大塚楠緒子という女性が、日露戦争のさなかに発表した、「お百度詣」という詩の一節である。同じ頃に与謝野晶子が詠んだ「君死にたまふこと勿れ」の感覚は、今でも理解する人が多いだろう。「…旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ …(略)… すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね…」というアレである。なんという大胆にして素敵、大胆素敵な詩であろう(ちなみに晶子の弟は実際に日露戦争へ出征したそうだが、楠緒子の旦那さん――大塚さん――が日露戦争へ出征した事実はないのだそうだ)。

 そもそも人間は二つの感情の間で揺れ動く(あるいは『乱れる』か)ものである。だがその揺れ動き方にも本来は二種類あるのだ。戦後の日本では、その一方が欠落してしまった。

 これらの歌は、映画とは特に関係ない。要するに、戦時中というものを、ただ被害者意識だけでなく、むろん純粋無垢な心の上に塗り込められた皇国史観でもなく、その善と悪を認識した上で、自らの意思でもって国家とその成し遂げようとした事業に主体的に参加せんと決意していた、ごく平凡な日本国民にとり、「戦後」とはなんだったのか。この映画は、そういうことを描いた作品であると見るべきなのだ。

 周囲の者は言った。「『家』のために人生を犠牲にした」あるいは「いたずらに人生を浪費した」。だが彼女(森田礼子=高峰秀子)は自分でこう言ったではないか「私は『生きた』のよ!」。戦時中は銃後で支え、戦後はとにかく切り盛りし、ようやく落ち着いた世の中へ、次の世代へ繋ぐという仕事を果たした彼女の、心からの言葉ではないか。私はこういうところでホロリとくるのだが、ほかの人はどうなのだろう?

 むろんこの後も話は続き、メロドラマといった形をとるが、それは、こうして積み上げられていった感情のボルテージに、ご褒美として与えられる、ある種のカタルシスのためのものだ。普通の映画とはだいぶ趣きの異なるカタルシスなので(でも道徳的には正しいよな)、きっとなかなか理解を得られないのだろう。

 だからこそ私は成瀬を好きなのだが。

85/100(07/06/26記)

追記)ちなみに(って関係ないっちゃないけど)成瀬は明治38(1905)年8月20日生まれ。同じ頃米ポーツマス市では、日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテが講和のための会議を続けていた。

(評価:★4)

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