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[コメント] 巨人と玩具(1958/日)

凄い監督の撮った凄い映画。という表現がふさわしい映画だと思うんだけど、これじゃなんのことだかわからんよねえ。
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ラスト、上司・合田(高松英郎)の代わりに宣伝用の宇宙服を着て夜の雑踏を行く西洋介(川口浩)に、恋人兼宣伝マンとしては先輩の倉橋雅美(小野道子)が近づいて、こう声をかける。「笑うのよ。明るく」 初めて自分から社会に一歩足を踏み出した”後輩”に対して贈るアドバイスとしては、この上ないものだったと思う。だがこの映画に、資本主義社会というものを、明るく笑って称える意図は感じない。

 現代人が激しい競争主義社会に夢を見るとしたら、全身全霊を傾けることによる、自分の能力が開発されることにであろう。自分の能力が開発される、ないし高まるということは、それだけ広く深く世界を手に入れる、ということである。ところがこの映画では、能力を発揮されるものとしてではなく、使い果たされるものとして描いているようだ。競争社会だから結果としての勝ち負けを伴うのは当然であるが、この映画は負けることの悲哀ではなく、勝負の過程で疲弊していくサラリーマンの姿が描かれている。

 私は、これを意図的にやっているのだとしたら、その意図とは資本主義を批判することにあると思う。また、無意識的にやったのだとしても、やはりその意識の中には資本主義に対する批判的な見方があったのだと思う。資本主義がいいか悪いかとは別の問題として、この批判は間違っていると私は思う。なぜなら、勝負の過程で疲弊する姿をもって勝負を批判することは、(正確な言い方ではないが、思いつかないので、暫定として)敗北主義であるからだ。

 一方で、この映画は、資本主義が確実に”使い果たす”ものをも描いている。それは、映画の前半で野添ひとみが魅力的に体現していたものだ。私はそれを”無垢”の魅力と呼びたい。資本主義は無垢を金に換えるシステムなのだ。ちょうど自動車が石油(ガソリン)を排気ガスに変えるシステムであるのと同じように。資本主義は、無垢を動力源として、それを金に換えて前に進む。

 無垢は、ひと度手垢がついてしまえば、無垢でなくなる。これまた石油と同じように、無垢は枯渇する資源なのだ。だからいち早く無垢を探し出し、初めに手垢をつけた奴が勝つ。これは45年前の作品だが、すでにこの国では無垢に希少価値があったと描かれている。多国間競争を余儀なくされた現代企業人は、日本という箱庭の中でだけ競っていればよかった時代を、牧歌的だったと思いがちだ。箱庭だからこそ激しく競わなければ生き残れないという価値観の提示は、率直に言って意外だった。だが、敗戦後まだ13年、世界にうって出る道の閉ざされた日本は、経済的には早くも行き詰まっていたのかもしれない。登場人物たちのやけっぱちとも思える突き抜けぶりや、それとは裏腹に全編に漂う閉塞感も、こう考えれば納得がいく。

 その意味で、「外遊」に行ったっきりで、映画の中には一度も登場しない”社長”の存在はきわめて暗示的だ。まさに彼が帰国して後、日本の高度経済成長が始まったのではないか。池田勇人が所得倍増論を掲げて総理になるのは、この2年後、1960(昭和35)年のことだ。

 もちろん、増村保造といえども時代の価値観のくびきから完全に免れるものではない。インテリとしての文明批評の態度が人間性の讃歌に繋がりきらないのは、資本主義批判といえば反資本主義の立場しかなかった当時の世相の反映ではあろう。だが、この神がかったとも思える構成センスを見せられるにつけ、今後私の中では”天才”の呼称をつけて彼を呼びたいと思う。天才・増村保造と・・・。

80/100(03/12/18見)

(評価:★4)

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