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[コメント] ゴッドファーザーPARTII(1974/米)

なんだ、これって普通に面白い映画じゃん。
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







[前回のcomment]

このシリーズ(1、2)で最も楽しめるのは、憎たらしいまでにフランクで合理的なアングロ・サクソンがあっさり殺られるところである。

[前回のreviewの要約]

 弱い犬ほどよく吠える。マイケルは小心なだけ。自分のイメージが相手に与える恐怖の量を正確に推し測り、生かしたままでコントロールできなきゃカリスマにはなれん。身内さえ抑えられない奴に組織は統べられない。恐怖を煽って他人をコントロールする非情さに欠ける。無益な殺生を繰り返すのは、疑心暗鬼に駆られた己の弱さの証明でしかない。前作で行動により示した大胆さはもはやない。小組織のボスくらいのリアリティはあるが、全米随一の大組織を束ねる”ゴッドファーザー”の器じゃない。マーロン・ブランドのビトーは私怨による復讐を固く戒めたのに。

 ロバート・デ・ニーロの若きビトーも結局のところ私情で動く。私利私欲の追求だけが目的なら、アングロ・サクソンと変わらない。彼らになく、イタリア系(なかんずくシチリア系)が持つ物は、”血の結束”なんだから。1作目も矛盾に満ちた映画だったが。苦痛に耐えて長時間付き合っても”ゴッドファーザー”がどこにも存在しない。つづりの間違いだろう。DogFather。

60/100(03/08/04記)

  ◇◇◇

 面白い映画の見方をする人がいる。映画ってのは、正しいことを正しく、間違っていることを間違っているとして描き、観る人に何が正しいのかを分らせるためのものだという。むろん、ただ正しい正しい言うだけなら右翼の宣伝カーと変わらないので、自分も間違っているかもしれないという前提に立ち、それでもなお、何が正しく、何が間違いかを自ずと分るように示す。それが芸術家の取る手法だというのである。

 彼の観点に立てば、さしずめこの映画は、マイケルの孤独感。数々の悪事を積み重ね、多大な利益を手にしたはずのマイケルが、最後に到達する孤独の闇の深さ。これを描くことによって、やはり悪事は悪事なのだと示した、そういう映画だということになろう。

 マイケルの父、コルレオーネ・ファミリーの初代ゴッドファーザー、ビトー(マーロン・ブランドロバート・デ・ニーロ)も孤独を感じていただろうが、マイケルの孤独はこれよりさらに深い。ビトーは、目的のためには手段を選ばない男で、殺しも含めた暴力行為をやってのけるが、事前に仲間に相談したり、いちいち報告したりしない。その結果彼は、周囲から畏怖をもって迎えられ、と同時に信頼と尊敬を勝ち得る。彼の妻は彼の裏の仕事の存在を見ようともしないが、それは彼がそう仕向けたからだ。彼はまがりなりにも家族を築き上げ、彼の心の奥底まで届く”真の理解”には程遠かったはずだが、”理解者”を周りに配置した。それは、彼にとって、それなりに心地よかったはずである。ビトーは、トマト畑で孫と遊んでいる最中に死んだ。

 マイケルはもっと孤独だ。彼は、イタリア系移民二世だが、家族の中では最もアメリカ人、すなわち個人主義的で、かつ全体への義務と忠誠を信じている。父に相談せず、海軍へ志願したのがこれに当たる。彼は、家族的結束を軸とした自分たちの組織が、アメリカ社会で強い力を発揮することを理解していただろう。父から受け継いだ組織を守っていく中で、彼は自分の身内をも排除しなければいけなくなる。彼はこのとき、自分の母親に相談を持ちかけた。あなたの夫は、こういうとき、どう振る舞っていたでしょうかと。だが母は、息子の質問の主旨を理解せず、数ヶ月前に流産で失われた胎児のことだと勘違いし、子供はまた作ればいいと答える。家族崩壊への危惧を訴えると、家族を失うことはないと励ます。彼がこのやりとりで得た回答は、もともと解っていたはずのこと、つまり父は、自分の妻に何も相談しなかった。

 マイケルの妻、ケイ(ダイアン・キートン)の存在は重要だ。彼女はイタリア系ファミリーに嫁いではいるものの、根は率直で個人主義的なアングロ・サクソン。自分の一部を犠牲にして成り立つ”幸せ”など、虚構だとして受け入れない。否、受け入れ続けることができなくなる。マイケルは、彼女の描く理想については理解していた。それは彼自身、アメリカ人として、アメリカが体現する価値観と理想を愛していたからだ。実際的には、価値観とか理想とかそんなあやふやなものではなく、ケイという女性を愛するという形で。だから彼は、裏社会と手を切ろうとし、自分を変えようと努力した。それはすべて、ケイのためだった――。だが彼は拒絶された。自分の努力まで拒絶されたとき、彼の中の真に譲れない一線が、「マフィアのドンであること」だったとすれば、これはもう、ケイを、すなわちアメリカを、自分から拒絶するしかない。つまり彼は、自分の一部を拒絶したのだ。

 ここまでの孤独を見せられたら、私はもう、これで十分だ、と思う。いいとか、悪いとか、そんなことを超越したところにある孤独。善悪を判断することは重要でない、などと言うつもりはないけれど、それらを超越したところに「孤独」が存在する可能性、それを描くのも映画にできる仕事の一つだと思った次第である。

 要約すると、初めて観たときはマーロン・ブランドのビトーに恐れおののいたが、今はやはりマイケル(アル・パチーノ)に惚れている、ということです。

80/100(05/01/15再見&20点up...これだから劇場で観るのはやめられない)

(評価:★4)

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