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[コメント] ファイト・クラブ(1999/米)

自慰的暴力のなれの果て。後に残るはティッシュの山
muffler&silencer[消音装置]

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







=瓦礫の山。

最近(2002年2月)のマイク・タイソンのニュースを観て、この映画を思い出した。「誰にだって譲れない一線がある」は『ID4』で既に使ったフレーズだが、この映画、僕にとってはまさにそんな感じだ。

僕も格闘技をしているが、この映画の暴力は<fight>に属しない。<violence>そのままである。(俺は、タイソンも<fighter>とは認めていない。まあ、俺が認めようが認めまいが関係ないだろうけれど。)

秩序を構成するため不可欠な要素としての暴力。それが人間の原初的活動であることに異論はない。そうして成立した秩序維持のため、人間は暴力を抑制する「文化」を生み出す。しかし、本能と認定して差し支えない暴力の捌け口を、ある特定の場所(たとえば、リングという「聖地」)を設けて行う。それが<fight>だ。

そして<fight>には対話がある。相手との対話によって、自分の「弱さ」を知り、本当の敵は自分の中にあることを知る。だからお互いの存在をリスペクトし称え合う。一方、<violence>は違う。相手は自分の力を誇示するための対象でしかない(レイプがその最たる例)。ここでも自分の「弱さ」を知るわけだが、その弱者であるという怨恨(ルサンチマン)を晴したい欲望に変化、つまり力の顕示欲は漸増的に奇形肥大し、敵を他者・社会に設定する。

この映画の"fight club"は名ばかりで、その暴力は、自我同一、アイデンティティー確立のための自閉的な暴力、自慰行為でしかない。一見<外>に向かってるようだが、本質は髄まで<内>に向かっている。だから、拳の対話がない。だから、奇形肥大する。そもそも、文化に<汚染>された肉体で、野生の肉体に戻るのは不可能であり、また、その<汚染>を否定することは、自らの存在自体を否定することに他ならない。海水はどれだけ濾しても真水にはならない。その自家撞着のなれの果てが、自慰的暴力の奇形したままの拡大(=テロリズム)だ。

ペペロンチーノさんも指摘されているが、この「ファイト・クラブ」と、古くは連合赤軍、最近ではオウム真理教との違いが、僕にはまったくわからない。一緒じゃないか。あの似非<fight>自体、オウムの「イニシエーション」という名の拷問や、連合赤軍の「総括」とどう違うのか。あの石鹸にしても、僕にはパソコンに見える。そして、「ファイト・クラブ」の自慰的暴力のなれの果てが、テロ行為というのも前述の二者と符合する。

僕は、映画に「道徳」を要求する野暮な者ではない。だが、それを見て「楽しいか?」と訊かれれば、迷わず「NO」と答える。たとえ、デフォルメされたコメディーであったとしても、僕は笑わない(それに、この映画における暴力のパロディー化は「逃げ」と「媚び」にしか見えない)。ティッシュの山なら自分で築くし、それでもう沢山だ。

しかし、たとえば<fight>ではない暴力を描いた最初の映画と言えるであろうスタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』は支持する。それは、この作品が、観客に媚びず、虚仮威しではない、表面的ではない、その<violence>の本質を抉り出し、かつ、「その先にあるもの」まで見据えつつ描こうとしているからだ。楽しみもしないし、笑いもしないけれど、僕は支持する。

そういう意味で、この『ファイト・クラブ』。まさに虚仮威しである。虚仮威しで暴力を描いた分だけ、その罪は重い。

(評価:★1)

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