[コメント] めぐりあう時間たち(2002/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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カモ。
明石家さんまがかつて歌ってましたな。懐かしい。
おバカな歌でコメントを始めましたが、正直、この映画には胸をかきむしられました。わたしの母を思って。
身内の恥をさらすようですが、わたしの母はいわゆるアル中でした。朝からビールやら酎ハイを飲んで、夕方にはスッカリできあがちゃっていて、晩飯もままなりませんでした。それだけならまだしも、これがまぁ、悪い酒で、いわゆるカラミ酒。詳しいことは書きませんが、親父が可哀想でしてね。そりゃあ、もう。
親父は真面目に朝から晩まで働いて、給料はちゃんと持って帰るし、それに貧乏でもない。庭付き一戸建てで、犬までいて、何が不幸せなもんかと。何がイヤで朝っぱらから酒かっくらって、のべつくまなし愚痴をこぼし、悪態をつき、わめき散らすのかと。わたしには、さっぱりわかりませんでした。
いや、わからなかったのではなく、わかろうとしなかっただけなのかもしれません。
「しあわせ」って何なんでしょうね。しごく簡単なことに思えて、とても遠い存在。よく「しあわせは手に入れるものではなく、気づくもの」なんてことをMr.Childrenの桜井君よろしく言いますが、それでは、気づいたあとは?
有名な小説の一節に「台所のテーブルの上で朝の日差しを浴びているミルクカップの意味、その重さ」というのがありますが、そういう光景に「しあわせ」の柔らかで、はかない、きらめきがあるのかもしれません。
そして、本作『めぐりあう時間たち』。
わたしが、彼女たちの「理不尽な不幸感」がわかる、と言ってしまうと嘘になるかもしれませんが、少なくともそれに似た存在に長く接してきた身として、心にグサリとくるものがありました。
ありきたりな「自分探しの物語」でくくられてしまうかもしれませんが、本作では、それを超える、説明できない<何か>がスクリーンに存在したと感じました。
自分とは何なのか、無常にゆっくりと確実に流れていく時間の中で、孤独ではないはずなのに、孤独に押しつぶされてしまいそうになる。息苦しい。自分が望んだはずのものが、実は望んだものではなかった。他人にとっては、それを手に入れた自分は羨まれる存在。しかし、わたしは、それをと手放すことばかり考えている。最初はぼんやり考えるだけだったのに、今はそのことばかりが頭にとりついて離れない。それはいつ?どうやって?手放した後は、どうすればいいの?そんなことが浮かんでは消え、そして今日も一日という時間が過ぎていく…焦燥。
それが空想で終われば、どこにでもある何の変哲もない風景の中に、一日という時間は溶けていく。しかし、それを現実にした時、現実にしたいと本気で思ったとき、その見慣れた風景は壊れていく。一日という時間は壊れていく。静かに、あっけなく、残酷に。
その壊れていく風景の断片を鋭く切り取ったのが、この映画だと思います。柔らかな朝日を浴びるマグカップが無常に割れるその瞬間、その意味。久々に胸にガツンときました。
この作品の登場人物の誰ひとりとして感情移入できなかった、という方々。しなくてよいのです。それこそが「しあわせ」の証かもしれませんよ。ただ、あと十年経って見れば…
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