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[コメント] ファニーゲーム(1997/オーストリア)

walk on the "darkside"―「ワタシガコワイ」・・・あえて言おう。この『ファニーゲーム』には残虐なシーンなどひとつもない。
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「ひとつもない」は言い過ぎかもしれないし、何が「残虐」かという定義は個人差があろう。しかし、事実、生生しい暴力の描写(たとえば、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督作品『ソドムの市』的な。たとえば、熊切嘉和監督作品『鬼畜大宴会』的な)は、すべてスクリーン外で行われている。そこが、この作品で特筆すべきところだ。

残虐なシーンは、その「音」だけが拾われ、暴力を受けている「対象」から、カメラの目ははずれ、別の被写体を撮る。そのため、観客は自らの想像力によって、その凄惨なシーンを脳に映像化しているのだ。つまり、スクリーン上に映し出された以上に『ファニーゲーム』の世界が、空間的に拡大する。この『ファニーゲーム』の《虚像》の世界はスクリーン外にまで拡大され、観客のいる《現実》を侵食するのである。だからこその「ショッキング」なのだ。

この映画が残虐なのではない。この映画の外、つまり我々の脳で描かれる、《暴力》の世界が残虐なのだ。そして、殺人ゲーム、快楽殺人の場景を、容易に視覚化できてしまう我々の想像力こそが、残虐なのだ。つまり、その残虐性、ダークサイドへの夢想は、現代人の誰しもが、多少なりとも、持ち合わせている性(サガ)、奇形した本性なのである。

本来抱く"べき"、この作品へのショックや憤懣は、私を含めて日本人には、それほど起こらないだろうと、予測する。なぜなら、この手の《暴力》は、日常において、そして映画において、頻繁に垣間見ることができ、馴化しているからだ。そして、それこそが危惧すべき事態なのである。

メタ・フィルムの手法は、まだ完成度は低いが、この映画にとっては、必然手段であると言っていい(*ラスト近くの《虚構》と《現実》についての会話は説明過剰だ)。極端にリアリズム的なシークエンスと、極端にメタ的なシークエンス、そのモンタージュ。そして、「どうだ?たいしたことないだろ?もっともっと面白いゲームを、お前たちは知ってるだろう?」と青年は観客に尋ねるのだ。

そして、「YES」と答えざるおえない、この日常にこそ、私は恐怖を感じるのである。

〔★4.25〕

[with ji/梅田ガーデンシネマ/3.03.02.]■[review:3.03.02up,3.05.02newly update]

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)Santa Monica OK くたー[*]

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