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[コメント] あ、春(1998/日)

流動的な眼差しで、日常(家族)に非日常(狂気?)が入り込む様を見つめた作品。
ちわわ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最近、3本の「家族」の映画をみた。3本とも秀作だと思う。『ニンゲン合格』(黒沢清監督)『落下する夕方』(合津直枝監督)(これは家族じゃないかも)『あ、春』。いずれも眼差しが違う、『ニンゲン合格』はひたすら客観的で冷静、『落下する夕方』は主人公の女性の視線によって描かれている。

ニンゲン合格』の主人公は記憶も家族の記憶も不十分で、これから関係をつくっていくのみ。十分な記憶をもたない主人公に、感情移入は避けられている。主人公の行為は、冷静な視線によってただ追っていかれる。『落下する夕方』の主人公は元恋人と共通の記憶をもっているはずであるが、そこに第3者が入り込むことでもう一度新たな関係を造る必要にせまられる。結果、モノローグの形で独自の皮膚感覚をもって、他者や世界との関係の揺れうごきが綴られていく。

では『あ、春』は?ここでの視線はより自然。いや流動的だと思う。最初猫の視点で物語が始まるのが印象的だ。(その後も猫の喉をならすおとがたまに聞こえる、もしかして猫がみてるの?)。眼差しはあたたかく、それでいてどこか冷酷である。登場人物は全て「家族」をもとめている。家族を求めて登場し家族を動揺させる父親を自称する男も含めて。だが様々な危機が見え隠れする。家族全員の微妙なすれ違いは、登場人物の間を行き来する流動的な眼差しで追っていかれる。ここでは家族の維持がドラマを作り上げていく。家族の危機は、発作的に笑う妻を夫が殴るとき、主人公の父親がニワトリを殺すとき、生まれたての雛の死などに象徴的にあらわれている。

死の床の父が孵した雛は家族の絆の象徴なのか?生命の象徴なのか?そんな解釈は通俗的すぎる。人によって意見が分かれるだろうけど、実はこの場面に僕は納得できない。(評価が4にするかまよったところ)物語はこう終わらす他無かったのだろう。様々な危機をみつつ物語は、前向きに終わる。「家族」を全員が認める方へ向かって。だが映画を観終わった僕たちは、日常の意味を見つめなおさずにいられない。

つまらんこと、長く書きましたけど、3本ともいい映画です。ぜひ観て下さい。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ゑぎ[*]

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