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[コメント] 世界の中心で、愛をさけぶ(2004/日)

本来語るべきことのあった高校生編を、回想という形式をとったことでエピソードの断片にしてしまい、それを振り返る現代編では語るべきを持とうとしない。世界の中心で愛を叫んできた、あまたの純愛ドラマとは勝負する気がなかったのか。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







彼女のような、可愛くていい子が、その命がもっともまぶしく輝いていた時に、突然消えてなくなってしまう。そんなの悲しいに決まってる。

この作品ってそれ以上に語ってくることはない。高校生編の主人公たちのドラマを回想として処理する以上、この作品は現代の朔と律子が、その過去とどう折り合いをつけて、新しい生き方を見出していくのか、それこそを描くべきなのに、いったい何がどうなって折り合いがつけられたのかさっぱりわからない。

律子は、命を賭けて託されたはずのラストメッセージ(カセットテープ)を、新婚生活に向けてかたづけをしている最中に見つけ、申し訳ないという気持ちから故郷へ旅立つ。よく考えりゃ自分の一生を左右するような怪我を負ったせいで渡しそびれたとはいえ、今まで忘れていたのかと思うとちょっとひどい。が、まとにかく自責の念にかられて台風の中旅立つ。テープを受け取る相手が、運命のいたずらか偶然にも自分のフィアンセだったという衝撃的な事実がおこる。ちょっとやそっとじゃ気持ちの整理がつかないと思うのに、その肝心な心の動きの部分はまったく省略される。

一方の朔太郎も、実家から見つかったカセットテープ(亜紀と過ごした2人の時間がほぼパックされている)を順に聴くことで、いままで思い出さないようにしていた亜紀のことを久しぶりに思い出す。亜紀を抱いた感触がその手にはっきり蘇えるまでに。そこにだ、新たな亜紀のメッセージが現われる。しかも彼女の人生の一番最後の時の肉声、最後の断片が突然現われたのだ。生きている限りは、彼女の口から新しい言葉がつむがれることがあっても、もう2度と彼女の新しい言葉を聞くことはできない…、最後のテープを聞き終わりそう諦めていたことだろう。そこに、である。あまりにも劇的な邂逅。驚きそれをとりあげ、今、その場で聞きたいという思いがあったはずだ。自分の犯してしまった罪におびえた律子の表情をみて、自分が狼狽しては彼女を傷つけてしまうと、辛うじて動揺をおさえこんだのだろうか。そんな雰囲気も全然感じさせないわけではないが、劇中の登場人物がもっとも心の動揺を覚えたはずの出来事が、あまりたんねんに描写されていない、というか、ここでは何も語ろうとしないのである。なぜか? 無名の俳優2人を主役にできないという商売上の問題か、尺の問題か、「回想」は手段だったのかも知れない。これは、オリジナルな何かを語る目的のためではなかった現代編で、期せずして生み出されたエモーションだったのかも知れない。が、現代編においてはクライマックスにもってきたっておかしくないほどのドラマがある。それなのに「先を急いでしまう」のである。ラストの豪州で灰を撒くシーンに向けて。これは原作ファンに対してのおもねりなのだろうか?

ちなみにこのシーン、「豪州にいく」と「灰を撒く」という原作では別々のシーンのつぎはぎで、原作にはない。骨を撒くというのは、原作のテーマのひとつともいえる「愛する人の断片への拘泥」というものに対する訣別という意味づけがある(しげ爺が昔の恋人の骨を必要としたこととも深く関わってくる)シーンなのだが、これではふつうの散骨にしか見えない。灰を撒くということと、オーストラリアの絵づらだけを求めた改悪ともいえる。(ついでにいえば律子が壜から粉になった骨を朔の手のひらにあけるシーン。壜から出にくいので少しシェイクするんだけど「この世に残った最後の亜紀のかけら」ということを微塵も感じさせない。風に舞って行かず手のひらに少し「粉」が残るのだが、パンパンと手をはたきやしないかと気になった…。)さらに余談だが、「骨=愛する人の断片」というモチーフは、原作の交換日記がカセットテープに替わった時点で唯一性がなくなってしまった。文字にくらべると肉声は生々しく彼女の名残をとどめる。テープがあるところでの骨というものは、かなり求心力が弱まる気がする。このテーマを映画に持ち込むことは難しかっただろう。

そうやって考えていくと、回想にしたっていう時点で、原作とは訣別しなきゃいけなかったのだろう。「原作の後日談」を、片山恭一に対抗する覚悟で作るべきだったんじゃないか?と思う。「新しい彼女」に対する風当たりを少しでも弱めるためか、律子にハンデを負わせるというごまかしのような設定(と、私には感じた)もしなくて済んだろう。原作を持ち上げているような言い方に聞こえるかも知れないが、私自身、原作にそれほど惹かれるものがあったかっていうと、そうでもなかったのだけれど。

高校生編は「回想」という手段のために、その内面のドラマを刈り込まれ、現代編は中途半端に原作を尊重したのか、そこで起きているドラマに目を向けない。現代編と回想編がお互いに本編を譲り合っている。それでもこの作品が私に何か訴えてきたとしたら、それは「美しく輝かしい思い出」を体現してくれた長澤まさみにつきると思う。他の役者やスタッフも彼女の魅力をひきだすために最良のサポートをしたのではないかと思う。

(評価:★3)

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