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[コメント] 初恋(2006/日)

「初恋」「たまり場」「3億円事件」で三題噺? 木に竹をついだような展開はお題のせいか、それとも「事実は奇なり」だからか。それはともかくも、言いたいことは自己愛だけっ?って語り口にげんなり。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







話の唐突さよりも主人公のみすずのキャラ造型が不可解。宮崎あおいのまっすぐな目は、恋に盲目となった一途さよりも、強い意志を感じさせてしまう。彼女が、初めて見つけた自分の居場所、そこを囲んでいた仲間たちを奪っていったものに対し、憎しみを持って立ち上がったというなら、そういう印象でよいだろうが、彼女は権力に無慈悲なものを感じこそすれ、憎しみや怒りをいだいていたようには思えない。彼女の動機は、怒りではなく、怒りを抱いた男に恋をし、男の役に立ちたいという一心だ。

みすずは岸のいいなりになり、頼りきることで、岸との信頼関係を築こうとしたように思う。だから12月に現金輸送車強盗を実行した直後、「これからは受験勉強に専念しろ」と言われれば、言われるがままに気持ちを切り替え受験に合格し(<素晴らしい)、もはや養親に頼ることなく自活の術さえ得ながら、一向に自立できないのだ。当然だろう。犯行直後「これでよかったんだよね」という台詞に現われているように、もはや自分で良いも悪いも判断することを止めた人間が、意志を託した人間なしにまともに生きられる筈はないだろう。

放心状態で道端にへたりこんでいるようなシーンを見て感じるのだが、宮崎あおいは、どんなにぐずぐずとした格好の悪さを演じさせられていても、ヒロイン視されているのだなあ、ということ。常にきれいに描かれている。同じく男に見捨てられ傷つくユカの描かれ方と比べると、そういう差を感じる。その差とは何か。それは「傷ついている女」を、「美しいものとして見る」か「ただの事象として見るか」、すなわち作り手の視点の差だろう。そしてみすず=原作者本人であるなら、それはつまり自己愛ではないのだろうか。監督は他人だが、その原作の視点をそのまま持ち込んで映画にしているのだと思う。だから恋に盲目となった少女でも、見苦しくは描かないのだろう。男に抱かれたいと同等の感情だけで大胆な犯罪をやってのけたかと思えば、勉強ができ知性も教養も持ち合わせていそうなのに、でもスーパーガールどころか、男無しでは生きられないダメな女の子…っていう、そういう分裂気味なキャラクターであることも納得がいく。これは作者の、あれもこれもと思いついた「理想の私」像なのだろう。

だからラストで、寂しそうに歩いていたみすずは最後に微笑んで歩きだすのだ。現金輸送を担当した銀行員、警察官、あらぬ疑いをかけられた人々、3億を強奪したことで傷ついた多くの人(とりわけ公安の捜査が強化されたことで厳しく追及を受けた、体制に歯向かった「同士」たち※)がいた可能性を顧みず、後悔ではなく、自分の心の傷が癒えることのみを考えて、前向きに。他人の私には、断じて前向きになって欲しくなかったところにも関わらず。

余談だが、この作品は、原作者本人の実際の体験を元に書かれたものらしい。とすると、岸が閣僚たちに対し実は具体的な脅迫を行っており、それが事前に付きとめられ海外に追放された、という描写があるがなんなのだろう? 犯行以来、みすずは岸と接触がないのだから、この描写はみすずの想像ということか、あるいはその後岸と接触していないということが嘘で、岸から事実を聞いたのか? 動機が本当のことなら物語が嘘、そうでなければ動機については想像、さもなければまったくの作り話ということか。まあ謎解きを楽しむ作品ではないのだからどうでもよいが。

※「三億円事件」(一橋文哉著) 参考

(評価:★2)

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