[コメント] 時をかける少女(2006/日)
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この作品は「後悔」というものをSFという設定を用いて上手く描いていると思う。「ああ!なんてバカなことをやっちゃったんだろう」と後になって悔やむのが後悔だが、この「ああ!」の度合いは若いときほど強い。歳をとると、自分が行う行為が後にどういう結果をもたらすか、うすうす気付いていて、そういう悪い結果を可能性の一つとして想定していたりするので、「やっぱりそうなったか」という程度に落ち着くケースのほうが多くなる気がする。
過去の自分が選択したことが、現在において、「まったく理解しがたい」「そんなことした自分が信じられない」のような、言ってみれば真琴のような豪快な後悔というのがとても懐かしく切なく感じた。そういう感情の振幅が昔はもっとあったんだよあ。ショートカットで「まこと」という名前、バットグラブ持参(?)で視界良好のこの作品のヒロインにあたえられた役割は、あざといくらいに「少年」なわけだけど、そういうキャラクターにしたのは、先々のことをあまり考えないで突っ走る躍動感を体現させるためだっただろう。
大抵の場合、後悔するようなことをしても、もうやってしまったことは仕方がない、とならざるを得なく、なんだかんだで人は前へ進んでいくことになるのだ。強制的にだが、前進できるのだ。それがタイムリープによって、後悔は常に改善できる目先の問題となってしまう。しかもその後悔は、たった一度の選択ミスなどではなく、何度も何度も検証しやり直した結果として自ら選んだ結果なのだ。「偶然とかたづけられない(逃げられない)継続中の後悔」というのが真琴を苦しめるのだ。SFならではの設定下で生きる人物だからこそ体験しうる極限の後悔を描くことで、非SFの世界で生きるわれわれにも「ある心情」というものの本質を訴えかけてくる。そういうところが本作の好きなところだ。
結果的に真琴が千昭を去らなければならない状況(未来へは戻れず、かつ真琴たちの前にいることはできない=現代で放浪しなければならない)にしてしまったことを悔いて、彼女が教室を飛び出した後、泣きじゃくりながら校舎の屋上へと向かっていくところは、タイムリープできないことはわかっていながら、それでも「飛ぶ」ことを欲してそうなったように思える。実際の真琴の心情であればとても納得がいく。そのように、虚構の世界でのリアルさというものを監督はかなり正しく描いていたのではないかと思う。
最後に、自然だけど感情豊かな仲里依紗の声と演技が良かった。「ちょちょちょっと待ってよ」とか「とまれとまれとまれとまれ…!」とかのところで、私の場合、映像よりもあの声のほうが目に浮かぶ、じゃない耳に浮かぶ。もう本当に真琴はこのボイスあってこそだ。最近観ていたTVドラマに出演している彼女を実は観ていたのに、真琴の役とは全然気付かなかった。その容姿と本作の演技とのギャップはかなり驚きだった。
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