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[コメント] ぐるりのこと。(2008/日)

みなが自分目線で世界を見ている、そんな個人と世界(「ぐるり」)のありよう。そこで生きる「生きにくさ」のこと。笑いあり涙ありの上質なドラマでありながら、同時にすぐれた社会批評である。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







共通のよるべしものを失い、自分の尺で世界を計る今のわれわれ。翔子が感じる違和感、カナオが感じる違和感、私が感じる違和感、私たちが感じる違和感。すべてバラバラなのだ。そしてこの作品で主役夫婦と殺人事件の被告たちは、その違和感に翻弄される者として描かれる。

勝手に原稿に手を入れてしまう若い出版社の社員に、「本当の愛を知りました」などと軽々しく賛辞を述べてしまえる読者。翔子の違和感は、誤りや欺瞞を理解させられない、自分の無力やふがいなさを責めるほうへ向かう。みな自分が悪いというふうに思ってしまう。出産・流産に対して、自分と同じように喜んだり悲しまないカナオへの違和感が、彼女の心の居場所を失わせる。カナオは彼女を見守り続けるが、「泣けばいい人なんかな?」と自分の違和感を口にする。児童無差別殺傷事件の被害者の母親の手首に包帯を見た時、カナオは子供を失い同じように自分を傷つける妻の姿を見たのか、それとも自分の父親の葬式で泣いている親族と同じように、「この人は自分を納得させてるだけ」と見たのだろうか? 「ママ母が悲しんだふりをしてるんじゃねえ」と罵倒する容疑者が、世界に感じていた偽善のような違和感は、翔子やカナオの感じている違和感と結局は同質でないだろうか。一方では自分を傷つけ、一方は他者を傷つけるほうへ向かった。が、カナオにしたって一旦は翔子を傷つけたことに変わりはないくらい、それは微妙な差でしかなかったのではないだろうか?(カナオのような人こそ世間からは違和感アリだろうし) そして、その差とは何だったのか、を問い掛ける。

そして監督は、翔子の回復のドラマの中でそれに答えていく。それは、女住職が翔子に述べた「生きるということは技術だ」と、いうことだろう。自然体でやっていって今時の人生は生きていけない。誰でも簡単にできるはずと思うから、翔子のような人は自分を追いつめるし、裁判の被告人たちは子供のように感情を苛立てるしか術がないのだろう。絵を描くための技術を学んだように世界のことをもっと学びなさい、と。カナオにはもともと備わったものとして、翔子には「絵を描くように世界は描くものだ」ということを受け入れる感性が残っていて、絵を学び直し、そうして世界を学び直すつもりで立ち直っていく。

さまざまな価値観の海に放り出されたわれわれは、泳ぐ技術を覚えなければ溺れてしまうのだった。世界や社会に対して違和感を感じることがあれば、自分の感性を信じてそれに異を唱えよう、という時代をあげての価値観の提唱があって以降、それが引き起こした混乱に疑問を投げかげるというのは何度も見たが、初めて明快な答えを見たように思う。要はその「感性」をもっと磨けというメッセージだと思う。

翔子が復活し始めた頃の風の変わる感じが凄くいい。花びらを塗っていく筆の弾力のある躍動感や、春とともにバッサリとショートになった髪型とか。翔子がカナオの絵画教室でデッサンをしているシーン(カナオの絵画教室に参加してみる気になったのだろう、そういう余計な説明がないのがまたいい)で、キャンバス越しに一瞬垣間見えるカナオと翔子の2ショットが、光線の関係なのか、老夫婦のように見えたり(…これは気のせいかも)。何度も背筋がゾゾっとなった。

カナオと翔子、翔子の母、翔子の兄夫妻と不動産会社の社長が、コの字に囲んで会する場面。土地を売る売らないで殺伐としているところ、似顔絵を一目見た兄貴の拍子抜けした明るさが他の人へ伝染していって、「あとは家族で決めてよ」「おふくろいろいろ悪かったな」社長が、兄貴が去っていく。ガキが後ろで甕を割って、溢れた水ですっころんだ兄嫁と子供たちが退場、夫婦と翔子の母だけになって、カナオに「翔子をこれからもよろしくね」というまでのワンカット。みんなおいしい場面とはいえ、いい芝居を見せる(甕を割るタイミングも絶妙)。

テーマ性の素晴らしさとドラマとしての盛り上がり、笑いあり涙あり、法廷でのサスペンスもあり(でも一番のサスペンスは、とんかつ屋でツバを入れられた味噌汁を寺島進がすすりそうでなかなかすすらないというアレ。こういうしょうもない遊びもいい)、そして何と言っても木村多江とリリー・フランキーの表現したあの夫婦像でしょう。『パトレイバー』の後藤隊長とリリー・フランキーは私の理想の父親像だな。あ、同い年だけど。

ちょっと蛇足だけど、この作品がテロップで1993年〜2000年という「年代」をわざわざ特定して、実際に起きた事件(を模したもの)ともリンクを保とうとするのは、作者が、本作品で起きていることと、実際の1993〜2000年と、そして現在の2008年を意識して見て欲しいという意図があると思うので、ちょっとその頃を思い返してみる。

80年ごろ。イデオロギーやモラルというようなあらゆる体制的なものに対峙せず、「自分が一番」とことごとく背を向ける生き方が始まって、「世界がどうであっても、自分が好き」と唱えれば何も怖くないという気分に満ち溢れていた。それを下支えしていたのは右肩あがりの経済成長と消費者としての全能感で、経済成長だけが誰でもが共有できる価値観であり、何を消費するかがアイデンティティだった。「自分に反することには異を唱えよう」ということが標榜された。経済成長がストップして「経済成長は正しいことだったのだろうか?」なんてことを言い出した途端、唯一共有できる拠り所がなくなってしまい、行き過ぎた個人主義だけが残った。気が付けばまわりの人とかみ合わない何とも住みにくい世界になってしまった。そのままほぼ今日にまで至っている。だいたいこんな感じだと思うのだが、ドラマが始まる1993年は、「バブルが体感的に崩壊した年」と言われている年だ。現在の「ぐるりのこと」が始まったのはこの時からだという、かなりダイレクトな指摘だと思う。

世界に対して異を唱えることは、世界が成熟するために必要なことだ。そのこと自体が悪いのではない。女児殺害事件の、被害者の母親と被告は、いまだに相手を「アレ」だ「Mさん」だ、と呼ぶ。現代の法律が裁けるのは殺人という行為だが、罪の本質が、氏素性や経済格差に威を借りてくだらないイビリを続けてきたり、罪の無い子供にその仕返しをしたというその幼児性にあることを多分われわれは知っている。無差別児童殺傷事件の被告が、遺族に浴びせる「偽善者」というのも図星なのかも知れないが、仮にそうだとしても、現在の社会ではそれをそこまで穿って見るほどの成熟さはない。女子大出の駆け出し法廷画家の「私頭にきて描けなかった」というのが、もっとも良識のある発言だろう。でも、この映画は、カナオの「それを描かなきゃだめだよ」という台詞をもって、やんわりとだがそんな良識さえ揺さぶってくるのだ。そのうちそういうことも議論できるレベルにきっと成熟できるだろう、という可能性をあきらめない監督のメッセージと思う。

(評価:★5)

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