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[コメント] わたし出すわ(2009/日)

あなたが見ている世界はどんなふう?
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







人は自分の望んでいることにきちんと向き合っていないんだなあ、と思った。

今の生活のこととか、時間がないこととか、お金がかかることとか克服不可能な諸条件が思い浮かんでは、最初から「無理だろ」と思い、そのうち面倒くさくなって頭から追い出してしまう。で、手近な代替物で目先の欲を満たしてしまう。でも、自分が何を望んでいる人間か、それをどれくらい本気で実現したいと思うのかを知ることは、自分と向き合うことでもある結構大事なことなのだろう。

本作の面白さは、自分の望みに具体的な資金をつきつけられることで、図らずも自分と向き合うことになるっていうところにあるのだろう。

そういう登場人物たちのドラマを引き出すために、マヤがみんなの前に現れた。そこまではいいと思う。が、マヤがなぜ「他人が他人の望みと向き合うこと」を望んでいるのかがきちんと語れていないと思う。

おそらくこの作品は、手近な代替物の消費(お金を使うこと)で、自分という人間の輪郭を形成していくことに長く慣れ親しんだ現代の私たちが、そういうことだけではやっていけなくなった時代に生きながら、なお新しい世界観(価値観)を見出せずにいることへの問題提起があると思う。「1億円あったら何に使う?」ではなく、「あなたの望みにはいくらかかるのか?」そして「それがあれば本気で望みを果たすのか?」 と揺さぶりをかけることが目的だと思う。

だとしたら、マヤのキャラクターは2種類考えられえる。

一つは、彼女はお金があるが自分の望みというものがよくわからない、われわれの代表者として描くことだ。彼女が無邪気に他人にお金を振舞うことを通して、彼女自身が自分の望んでいたこととは何だったのかという、自分自身へ向き合うことに辿り着くストーリーだ。彼女はようやくスタート地点に立ったのだ、という結論で、これなら彼女が目指す先のことに触れないで済む。

もう一つは、彼女が目的意識をもって「他人が他人の望みを果たそうとするためにお金を使う」人間であり、そう彼女が望んでいた理由を観客に解き明かすことだ。

本作のマヤは明らかに後者として登場している。友人たちが、本来の望みを取り戻すことで「(友人たちの)世界が変わっていくところを見たかった」という主旨の発言をしているから明らかだろう。しかし「今の世界が変わっていって欲しい」という作品のテーマは語られるものの、劇中の彼女がなぜ「世界が変わっていって欲しい」と望んでいるかが語られない。キャラクターとしての言葉に落とし込まれていない。果たして彼女は消費社会の行き詰まりを嘆き、新たな社会の価値観を模索する思想家であろうか。いや、そんなかわいくないヒロインなどありえない。

同時に、彼女自身お金を稼ぐ才能には恵まれているものの、自身は望みのない世界の住人で、世界中を走っている路面電車のことが気になる人生だとか、「走ると気持ちがいいよ」とか「魚の気持ち」とか「東京に向いているとか向いていない」とか「あなたは友達でライバルよ」とか、もはや言葉で語ってくれない母の世界だとか、自分からは想像のできない世界をただ眺めていたいというようなニュアンスも感じられる。だったら前者の「自分のしたいことがよくわからない子」のほうがしっくりくる。いや、そんなバカっぽい小雪などありえない。

ちょっと長くなったが、結局のところ監督は、マヤが自分の望みを自覚している人間でありながら、なぜ彼女がそう考えたのかを明確にすることから逃げたと思う。冴えた理由がどうしても見つからなかったからだろうか? 投げ込まれたゴールドバーの真相など、すべてをあやふやにするための煙幕でしかないという、大変ながっかりである。

結局、マヤ自身の動機が語られないことで、彼女は本作品の抽象的なテーマの代弁者であり、友人たちの物語を引き出す設定だけのためにいる狂言回しになってしまった。彼女が「なぜ望むのか?」という「なぜ?」への作者の考察と提案が、現代の先にある新しい価値観というテーマにとって観客がヒントとして意見を聞きたいと思うことだし、何よりこの物語は、どうしたって彼女の行動のミステリーこそが牽引しているものだ。知りたいことが知らされないのであっては面白くはならないだろう。

ところで、マヤのそっけない部屋に一枚だけ飾ってある絵画は、アンドリュー・ワイエスの有名な「クリスティーナの世界」である。ポリオで体が不自由となった姉とその面倒を見る弟が2人で暮らしている農家に下宿しながら、その家の周辺の風景を描くことを望んだワイエスが、不自由な体で我が家に帰ろうとする姉を描いたものだ。姉はこの世界の中で何を望んでいるのかを思って。カメラをわざわざこの絵で止めている以上、監督がそこに意図を持たせていることは間違いないだろう。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)IN4MATION[*] chokobo[*] ペペロンチーノ[*]

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