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[コメント] 曲がれ!スプーン(2009/日)

見離されたト・キ・メ・キ。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「欲しいものはただひとつだけ」と劇中の挿入歌が歌っているが、ヒロインが欲しかった「ひとつだけ」とは何だったのだろう?

この作品のテーマは2つ。本物の超能力者たちがその力を披露する、あるいは隠そうとすることで発生するネタで笑わすことと、超常現象を信じたいと思うヒロインの一途な願いが叶うかどうかというワクワク感を味わわせることだ。

なぜ人は超常現象に惹かれるのか? それは不思議なものを目にしたいというトキメキがあるからだろう。そこを拠り所としてヒロインに共感する部分も大きい。というか彼女の夢が「いつか本物の超常現象を見てみたい」というところにあるものだと思ってこの物語を観ている。

彼女が超能力者のたまり場に現れたことで、ついに彼女の夢の実現がかなうことへの期待感が高まる。そして超能力者たちが彼女の気持ちを知ることで、彼女の願いをかなえてやろうとするところがクライマックスなわけだ。であれば、そこまでにいたる彼女の夢に対する一途さ、彼女のその思いの強さを描けば描くほどそこで盛り上がることになる。

ところが彼女の一途さを表現している場面がとても少ない。いや、端的に言って長澤まさみの登場場面そのものがとても少ない。長澤まさみファンのための映画としても、尺が90分という短さからしても、前半で彼女の登場場面はもっと増やし、彼女の「超常現象」に賭ける情熱をもっと描けばいいはずだ。

ところがこれが描けないわけだ。彼女が実は、彼女自身自覚しているテレパスだからだという設定のためだ。そのことをどんでん返しとして機能させるべく、物語ではそこを隠している。「いつか本物の超常現象を見てみたい」という彼女の気持ちの描き込みなどしたらボロが出てしまう。彼女の願いが「不思議なものを目にしたい」というトキメキにはなかったと知った観客の多くは、そのまさかの展開に感心するよりも、肩透かしを食らって「なーんだそうなんだ」とか、あるいはなんだか不快に感じただけなのではないかと思う。

こうなってみると彼女の本当の願いが、「テレパス以外の超常現象の可能性の追求」だったのか、あるいはテレビマン的に「実在の証拠をおさえたい(証明したい)」だったのか、もしくは「他の同士と巡り合いたい」だったのかよくわからないが、それならそれでそういう彼女の姿をきちんと描いて欲しい、と思った。

彼女がサンタを追いかける時の興奮、円盤を見つけた時の興奮、彼女の「本当の」気持ちを知りたいのに、彼女は「いつか本物の超常現象を見てみたい」といってたころと変わらぬキャラクターのままで興奮している。嘘だろう、と思う。

しょせん嘘の登場人物なんだから嘘、といわれたようで不快なんだと思う。嘘の世界できちんと嘘をつけなきゃ作り物の人物に共感などできるわけがない。前者はサイコキネシスの初めての目撃だし、後者は人知のおよばない存在の目撃だ。長澤まさみは、飛ぶサンタを追いながらも、カフェの連中への、超常現象に憧れてる私にサンタはないでしょ、という面映さと、それでも思いやりの暖かさをかみしめてもいるというようなニュアンス、円盤の出現で「これで多くの人が超常現象の存在を信じてくれる」という、自分が観たかったというのとはまた別種の喜びを、もっと表現できなかったのかなあ。でもこれ彼女のせいじゃないと思う。

結局、米ちゃんというヒロインの本当の気持ちなんか作り手はまったく意中にないんだと思う。テレパスだった彼女の気持ちと、なんの超能力ももっていないけど超常現象にあこがれている女の子の違いなんかどうでもいいと思っている。彼女のトキメキのことなんて適当にしか考えてないんだろう。超常現象なんかもファンタジーと思っていて、それを信じているヒロインになんの愛情も抱いてないでしょ、って言ったら言い過ぎか? 子供たちが円盤を目撃し夢の種が蒔かれた、なんて言っておきながら、本人たちがまったくその台詞を信じていないんだからひどいと思う。

この作品の作り手たちは、空想のものを空想として楽しむことと、本気と思っているから夢が現実になることを願うっていうことの差がないんだろうか? これじゃどうしたって米ちゃんの物語は描けないだろう。円盤がただの賑やかしであることは、エンドクレジットで監督が自分の名前を円盤に宙吊りにされて見せるのを見てもよくわかる。本作のヒロインがもしいたとしたら、ああいうふうにあつかわれちゃうってとこに傷ついてきたんじゃないのかねえ。「最後にスプーンも曲がりましたよ」っていうことがなんら気の利いた場面となっていないのは、前提として「いつかは曲げたいんだ」っていう米ちゃんの本当の切実さを描いてないからでしょ。

「カフェ・ド・念力」の小演劇ふうの芝居とネタは好き。けど、マスター役の志賀廣太郎の落ち着いた声と所作が、上滑りしそうなを芝居をしっかり締めていい雰囲気を作っていたからこそだと思った。

(評価:★3)

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