[コメント] 地獄でなぜ悪い(2013/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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やくざの出入りを撮影して映画を作るなんて設定は、基調を最初からナンセンスにしておかないと上手くいかないだろうと思っていたが、これが意外にふつうの(日常感覚の通用する)ドラマとして成り立っていたというのが傑作の予感だった。
娘の女優デビューだけを心の支えにして刑期を過ごしあと10日で出所というところで、娘がまさかの撮影バックレ、さすがにプロデユーサーを脅し透かししてももう代役での撮影でなければ物理的に間に合わないということはわかる、しかし、自分を身を呈して守ってくれた妻に対し、どんなに愛人をとっかえひっかえしていたとしても、この妻だけは墓に一緒に入る別格の存在、何が何でも娘のデビュー映画で迎えてあげなければならないのだ、だったらもう自分で撮る以外に方法がない…という屁理屈なアイデアを、友近の完全にツボを押さえたキャラ造形が、「そんな話もあるかも」と思わせちゃったからすごい。
血まみれで出刃を振り回す姿と、面会で娘の少女時代のCMの歌をぶりぶりで歌って見せる姿をなんの破綻もなく、一貫性のある人物像として成立させてしまった。「あるあるキャラ」を長年ネタにしていた芸人の卓越した観察力は、なによりキャラの一貫性に拘る。「この人物だったらきっとこういうことを言うだろう」ということを観客に想像させていくわけだから。「それってあるある」の引き出しが、「そんなやつないない」キャラも一貫性でもって具現化してしまったという感じか。
となれば、正直、堤真一、二階堂ふみ、長谷川博已は、多少キャラ造形で無理をしている感は否めないのに、そんなに気にならない。いや何しろ「やくざの出入りを映画にする」というこの作品自体の根本的な嘘さえも流れにのってしまったという感じだった。
そしてオレオレ詐欺をしている最中に二階堂ふみに連れ去られ翻弄される青年を、真面目さと人を食ったようなウソ臭さ、俳優とお笑いを軽く行き来するという、考えてみれば友近とある意味似たような挙動不審な役者星野源が後半をリードする。これで作品はファンタジーのバランスを維持し続けるのだ。これが星野源でなかったらどうだろう、頭に折れた刀がささったままという絵ズラの状態で恋人との別れを自然に演じられる役者がほかにどれだけいるだろう? 実際このシーンが撮れちゃえば、首がすっとぶシーンや、二階堂ふみにメロメロな堤真一の親分のシーンなんて、監督にとっちゃもう「つかんでいた」ってとこではなかったか。
監督の悪ふざけぶりは、おおむね共感できて、「(撮影があってもなくても)やることは同じだろう」と堤真一の親分が出入りの撮影を許可をするくだり、切り合いの途中で照明が落ちて、「もう1回続きから」なんていうやりたかっただろうギャグも狙いどおりうまく撮ったなあと感心。しかし出入りの撮影で長谷川博已が、二階堂ふみの主演映画を作っている筈であるにも関わらず、娘の立ち回りや星野源との別れの絡みなどそっちのけで、坂口拓ら仲間たちを撮り続けているところなんかは(監督の映画青年的な心情への思い入れからすれば正しいのだろうが)自分にはバイブスが合わなかった(<一度使って見たかった。便利な言葉ですな、これ)。
ラストフィルムを抱えながら歓喜の叫びをあげ夜道を走る長谷川博已のシーンで、小雨が降ってくる演出は凄い良かった。ペーソスですね。
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