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[コメント] シン・ゴジラ(2016/日)

情報量は多いが、答えは込められていない
HAL9000

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ハリウッド版が覇道なら本家は王道であるべきだろう。問題は本作をゴジラの王道と言えるのかどうかだが、構成や造形などでは極めて特殊なゴジラ作品なのは間違いない。しかし作品に込められた「国のあり方」というメッセージや「核」への言及は邦画では白眉であるし、自衛隊描写のリアリティ含め実は王道を行っているのだと感じた。

とは言え本作ではドラマの部分は全くもってダメである。ダメというかコンセプトとしてほぼ排除された作りなのでそこに不満はある。ゴジラ作品として。出来ないことはやらないっていうスタンスなのだ。政治家とお付きの官僚によって繰り返されるレクチャーと会議は「この国のあり方」について問題視している者にとっては興味深いが、デート映画で選んだ連中にはご愁傷様というよりない。感情移入できない人間たちしか出てこない点も退屈を誘う。しかし今作では若い世代(と非主流の才能)によって国の危機(古い常識)を打ち破っていくという唯一のカタルシスが、彼らによってもたらされるので許容できる。それにドラマは描かれていないが背景としては結構深い。日本ではドラマはセリフそのもので語られる傾向があるが、今作ではそうした安易なものを排除していると擁護することもできる。

この作品における日本は3.11のような巨大災害を経験していると思われる。それを伺わせる台詞があり、その際の怨念がこのゴジラを進化・上陸させたという格好だ。この部分の考察は色々な可能性があるがほぼ確定的だと思われるのは、牧悟郎が生物学を専攻していながら米国に渡ってエネルギー研究に身を置くという流れから、彼の妻が原発で働いていて災害時に政府と電力会社のまずい対応で見殺しにされたことに怨みを抱き、自らの専門分野で核エネルギーにアプローチしようとしたのだと推察される。その過程で「ある発明」をして、それは平和利用もできるが全く反対の利用もできるものであったので牧は意図的にデータを改ざんして姿を消した。この行為は1954年ゴジラの芹沢を想起させるし、その先にはマンハッタン計画への隠喩がある。だからおそらく牧悟郎は自らの発明を深海のゴジラ(になりうるもの)に対して用い、東京湾まで引き連れて解放してから命を絶ったのだと思われる。芹沢と同様に。もしかしたら今回のゴジラはビオランテ的なものなのかもしれないがその真相は語られることはないだろう。

今作の主人公は矢口でありその他主要人物のほとんどが官僚ではなく議員であるというのも考えさせる仕掛けだと思う。実際はどうであれ、今作の中ではガバナンスの問題が一足飛びに進歩していく。ゴジラの放射火炎によって政権の主要閣僚がひとまとめに消滅し、押し付けられて総理になった里見は事態が収束した後に総退陣を画策して次の世代への期待を示したと思われる。 巨災対のように有能で決断力のある政治家とそれに従う多様性のある官僚が力を発揮できるチームが「あの時」に存在したら‥‥と思わずにはいられない。しかしこの国で巨災対のような組織はファンタジーである。残念ながら。

そして牧がこれらを期待したのでなければ筋が通らない話なのでそこは疑いようがない。引っかかるのは、大量殺害を契機にしておいて問題提起とするのかということだろう。歴史上で繰り返されたことだが。ここを掘り下げるのは映画評とは違うだろうから触れるに留めておく。

また興味深いのは、米国から巨災対に送られてきた専門家チームは早い段階でドロップアウトするかのような描写がなされていた。その対比として独国のスパコンセンターと仏国の外交筋は「映画の中のこの国」の要望に対して最大限の対応を見せている。この世界がわずか二国間の薄っぺらい信頼関係のみで漕ぎ進んでいける訳もなく、また流石にこの国の多数がそのような虚構を信じてるとは思いたくないが、こういう描写も本作の「面白いところ」ではある。深いか浅いかとか多面的な描写とか言っていたらこういう作品すらこの国で映像化することは叶わないような気はしている。

シン・ゴジラは、「進・ゴジラ」であり「私・ゴジラ」なのかなと思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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