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[コメント] 羅生門(1950/日)

荒唐無稽のリアリズム。
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







純粋に物語の部分のみをとりだして見た場合、この映画はシニシズムに陥った人間の希望と絶望とを描いた話、として読むことがとりあえず可能だろう。あるひとつの事件に関わった人たちそれぞれの証言が全くかみ合わず、その矛盾するいくつもの証言を聞いた人間は、いったい誰の言葉を信じればいいのかわからなくなる。人間の数だけ解釈があり、その各々の解釈の間に歩み寄りの余地がまったくない不毛な相対主義。それに直面することによって陥るシニシズム。だがこの場合注意しなければならないのは、この種のシニカルな相対主義的言説というものは、どのような思考の筋道を経たものであれ、まずあるひとつの「事実」があってそのまわりを無数の解釈がめぐっているという、一種のイデア論を前提とせざるをえないということだ。なぜならシニシズムというものは、信ずべきイデア(真実)があって、それに裏切られたという幻滅から、もうこれ以上裏切られたくない傷つけられたくないという反動によって生まれるからだ。だからこと物語のレヴェルのみにおいて語る場合、この映画が暗に前提するのは裏返しのプラトニズム、イデア主義なのだ。

ところで原理的にさかのぼれば、映画とはまず物語であるより前に、映像という一種のマテリアルだ。たとえ現実の出来事であろうが回想であろうが、事実のであろうがその解釈であろうが、映画において語られる場合、それらはスクリーンという平面的なフレームを媒介とするかぎりにおいてしか存在しえない。つまり現実の出来事も回想のなかでの出来事も、スクリーンに映された映像であるという一点において等価だということだ。このレヴェルにおいては、現実とその解釈(回想)という認識論的な二項対立は成立しえず、端的にどちらも同じ映像でしかない、という唯物的な事実が残るだけである。

このレヴェルで見た場合、登場人物たちが綴る回想シーンのどれを見ても、そこにあるのは、あるひとつの事件の「解釈」であるよりまず先に、フレームに収められた三船敏郎京マチ子らが演じる人物たちの「生々しさ」であり、彼らが生きる世界の超現実的な「生々しさ」ばかりである、と言うべきだろう。チャンバラシーンにおける三船の卑俗な人間臭さ丸出しなふるまい、あるいは響き渡る哄笑や流れ落ちる汗、京マチ子の一種神懸かり的ともいえる凄絶な表情。縄で縛られた森雅之をめぐる三船と京のやり取りに至っては、まるで人間をめぐって繰り広げられる悪魔と天使との狂騒劇のようではないか。ここにあるのは現実でもなければその解釈でもない、ある超現実的な異界ともいうべき光景だ。思えば、轟音をもって降りしきる土砂降りの雨の中、半壊しかけた羅生門の前に泥を跳ねながら姿を現す一人の男を写した冒頭のシーンからすでに、まるでこの世の終わりのような荒唐無稽な世界がいともあっけらかんと描かれてはいなかったか。

その冒頭から、まずは中心的な語り部ともいうべき志村喬の回想というかたちで、志村の記憶とともにフェードインしていく森の中の風景、そこはそれまでの世界とは一転して生命と光に満ちた場所だ。ところが、この闇から光へという反転の儀式によってとりあえずは分け隔てられていた現実世界と回想世界との境界も、その後三船や京らによって繰り広げられるやはり荒唐無稽な活劇によってたちまちに突き崩されてしまうことになる。というか、ここで用意された境界はおそらく、現実も回想もなく、ただただ荒唐無稽さに満ちた世界=映像だけがあるばかりだという端的な事実をより効果的に見せつけるだけのために、はじめから突き崩されるという前提のもとに作られたのだ、と見るほうがより正しいのかも知れない。

森の中の陰影ある木漏れ日を表現するために鏡を使ったりとか、モノクロームの映像に映る雨の「雨らしさ」をより強調するために、セットの雨に墨を混ぜたりしたという製作上のエピソードはよく知られているが、こうして見ると、いわゆる現実のリアリズムとは異なった、このようなモノクロ映画ならではのリアリズムの手法を用いた必然性も見えてくるような気がする。つまり、現実の雨以上に雨らしい「黒い雨」、現実の木漏れ日以上に木漏れ日らしい「白い陽光」は、この黒と白の対比を無化し、あっけらかんとした表情でいともたやすくその黒と白の境界をまたいで見せる荒唐無稽な世界を描くために、なんとしてでも必要な装置だった、ということだ。それはたとえば、アルフレッド・ヒッチコックの『断崖』における有名な階段のシーン、ケーリー・グラントの持つミルク入りのカップのなかに豆電球を仕込み、暗い階段のなかでカップが放つ異様な光彩によって、夫の妻への殺意を表現しようとしたというエピソードにも通じるような、ある種の映画的必然というべきものなのだ。

もしこの映画に、何かしらの絶望を感じるのだとすれば、個人的に言うならそれはシニシズムに直面した人間が抱く絶望のことではない。現実の世界とは似ても似つかぬ荒涼と狂騒の世界に、自分もまた否応なく存在させられているのだ、という過酷な「現実」に直面した人間が抱く絶望である。そしてこの映画は、その絶望する荒唐無稽な世界を、映画として、存分に描ききった作品だと私は思う。だからもし、捨てられた赤子に一条の希望を見出すという、御都合主義に満ちたラストを批判するのならば、その嚆矢を向けるのは御都合主義的な蛇足に対してではなく、この映画がただ映画それ自体だけで屹立する過酷さに耐えられなかった敗北に対してであるべきだ。私はそう考える。

(評価:★5)

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