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[コメント] プライベート・ライアン(1998/米)

評価されるべきは最初の30分だけ? いやしかし…… (レビュー大幅改訂)
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







以前にレビューを書いてからだいぶ時間も経ち、この映画に対する評価が自分のなかで少し変わってきたのと、muffler&silencerさん、巴さんらが書かれたレビューに触発されたというのもあって、新たに書き直してみることにしました。旧稿の改訂・増補版みたいなものかな。[2002/2/14]

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もう言わずもがなではあるけれども、冒頭30分のノルマンディー上陸作戦の圧倒的な描写がとにかく素晴らしい。銃口を向けた敵に向かって体をさらす、という上陸作戦の容赦ない理不尽さが、理不尽さのままに、むきだしに描かれる様。後半部の戦いにもあった描写だが、誰が敵か味方かわからないどころか、敵か味方かを判別する主体そのものがどこにいるかすらわからないという「視点の不在」を叩き出した映像。ここで浮き彫りにされるのは、戦争という大きな状況を前にした個人の思惑の圧倒的な無力さ、という構造のもつ残酷なリアリティだ。

もちろん「視点(パースペクティヴ)の不在」などというものはフィクションである。視点や統覚のない世界を描くにも、そのような世界を描く人間自身の視点や統覚は、必ず確保されなければならないからだ。その意味でこれは作為的なものだ。そしてしかし、これは映像だからこそ許される、いわば「フィクションとしてのリアル」であって、そのリアリティじたいは信仰の問題ではない。だからそうしたリアリティを信じるか信じないかを論じるのはほとんど意味がない。けだし映像とは、信じられるべきイデア(観念的)であるよりも前に、まず単に見られるべきマテリアル(唯物的)であるはずだからだ。そしてその位相においてこそ、映画ならではの「フィクションとしてのリアル」が発動することを、この戦闘シーンを撮ったスピルバーグは明確に認識している。

フィクションとリアリティの関係性がはらむ問題は、物語のレベルにおいても、映像のレベルにおけるそれとはまた別のかたちであらわれている。ちょっとした偶然の積み重なりから、息子四人を戦争で失った一人の母の悲しみが、最後の息子ライアンを国民一丸で救出しようというひとつの「大きな物語」にまで成長していく様。その「物語」がフェイク(フィクション)であることを知りつつも、そしてそうした「物語」遂行を命じる軍部の、ひいては戦争や国家というものの馬鹿馬鹿しさを肌で感じつつも、戦場を渡り合ううちにいつしかその馬鹿馬鹿しさを本気で信じ始めてしまう中尉(トム・ハンクス)一下の小隊たち。あるいは、信じざるをえない極限的な状況へと彼らが追いやられていった、と言うべきか。ともかくここにおいて、一つの物語なり幻想なりを、それがフィクショナルなものだと知りつつも、自らが生きてゆくための糧として信じてしまおうとする人間の性(さが)を見てとることができる。たとえそれがフェイク(フィクション)だとしても、人は物語なしには生きられない。

このようにこの映画は、フィクションとリアリティの関係について、物語レベルと映像レベル双方においてそれぞれ微妙に違った方向をめざしている。その微妙な、しかし決定的な差異を作っているのは、まさに「信仰」の問題である。人は物語を信じる。というか、信仰なしに物語というものは語りえない。信仰が物語を要請するのだとも言える。他方、くりかえしになるが映像は信ずべきイデアではなく、あくまで見られるべきマテリアルにすぎない。そして、人はふつう前者を求め、映画は後者であることを求める。かりに、前者を提供するのが職人(エンターテイナー)で、後者を追求するのが映像作家(アーティスト)、とするならば、スピルバーグはまさしくその両者のはざまで分裂している、とでも言うほかないだろう。そしてその分裂ぐあいこそが、この監督のもっとも面白い「作家性」なのだろうと思う。

……だって、ホメてる人もけなしてる人も、なんだかんだ言ってみんなスピルバーグの映画見てるじゃん。そしてその分裂ぐあいに反応してるじゃん。スピルバーグは単なる幼稚なヒューマニストじゃないし、細部にこだわる映像オタクじゃないし、……っていうか、その両方なんだよ! そしてそして、だからこそ面白いんじゃないかこの監督は。

改訂前のレビューで、僕はこの映像と物語におけるリアリティの問題を、「構造」ということばで語った。いわく、この映画には二つの「構造」が貫かれている。一方は、戦争という大きな状況を前にした個人の圧倒的な無力さ、その冷徹で残酷な現実。他方は、それでも、というかそれゆえに、たとえそれがフェイクなものだとしても、信ずべき物語を求めてしまう人々の性(さが)。そして「アメリカ」とは、この二つの構造の上に築かれたものに他ならないのだ、と。

これに新たに付け加えるならば、ここで描かれる「アメリカ」とは、まさしくリアルでありながらフィクショナルなものでもあって、その決定不可能性こそが、あの意味深な「ペラペラ透ける星条旗」のショットを挿入することを要請したのだ、とも言えるのかも知れない。

しかし実は、これは考えてみれば後付けもいいところだ。この二つの「構造」は、いわば僕自身が事後的に見出したものにすぎず、それを僕に見出させしめたもの、つまりスピルバーグのかかえた分裂を、ここでは完全に見落としてしまっているからだ。まずはじめに分裂ありきで、それをあたかも二つの構造が自明なもののごとく通底していると見なすのは、事後的な捏造作業でしかない。そのことに気づいてから、ずっとレビューを書き直したいと思っていたのだが、ひとまず果たせたといったところか。出来はまずまずかなあ。でも、また書き直すかも知れない。

(評価:★4)

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