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[コメント] アイズ ワイド シャット(1999/米)

現実でも夫婦関係にある二人を映画でも夫婦役として起用。完全主義のキューブリックが今までにこんなことをしたか?
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







[2001/12/20]

性と文化についての覚書。性を「全一」と見なし、文化を「性の欠損の充填」と見るような図式がある。文化(意識)は性(自然)にとうてい到達しえないものであると。つまり、いくらお勉強ができようがいくら本を読んでいようがいくらいい文化に触れていようが、いい女といい恋愛していいセックスしたほうが「結果として」見ればはるかに充実した人生だった、要するにわかりやすく言うなら「自意識人間よりも野獣系人間!」という身も蓋もない意見のことだ。そうした考えが世の中にあることは確かだし、僕自身、その意見をあくまでも条件つきではあるが首肯することにやぶさかでもない。

さて、スタンリー・キューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』である。この映画は、トム・クルーズニコール・キッドマンという実生活においても夫婦の関係にある(あった)俳優二人をそのまま夫婦役として使ったり、NYの町のセットをいかにもセット然と使ってみせたりと、それまでキューブリックが厳密に区分してきた映画と現実の境界を半ば意図的にぼやかしつつ、「人生行き着くところは結局「ファック」しかない」、という身も蓋もない結論を出して唐突に幕を閉じてしまうのであるが、そのあまりの唐突さと身も蓋もなさ、そして映画という囲い込まれた非現実を周到にかつ性急に現実へと投げ込もうとするその容赦のなさゆえに、この作品は「スゴイ」のだということもできるだろう。

とはいえ、そのような意見をとくいげに吐く人間(俺だ、俺)がどうしたってキューブリックその人の遺志を[表象/代行]できるものでもない以上、いやそれ以前にその人がキューブリック本人ではない以上(当たり前だが)、そのような身も蓋もなさを機会主義的に使用するほかない自分自身への違和感と苛立ちはどこまでも持ち続ける「べき」なのだ。この「べき」は倫理ではなく、ほとんどア・プリオリに存在する当為だと言ってしまっても差し支えない。

つまり簡単に言うならば、「人生行き着くところは結局「ファック」しかない」という「真実」(だが、誰にとっての?)を、キューブリックの映画に仮託して普遍語りしてみたところで何も始まらないということ。これはあくまでキューブリックの「真実」であって、あなたや私のそれではない。だから重要なのは、それが語られるコンテクストだ。そして「あの」キューブリックが最後の最後になってそれを「語った」、これほど強烈に人を打ちのめすコンテクストもそうなかろうと思う。

だからつまり、あえてこの映画から何かしらのメッセージを引き出したいのであれば、「人生行き着くところは結局「ファック」しかない」という「真実」をではなく、その「真実」を最終的に選んだキューブリックその人の生の軌跡=持続をふまえたうえで、自らもまた自分自身の持続を生きること、これである。キューブリックは、結局僕はこうなったよ、でも君は君でやりたまえ、と言っているにすぎないのだ。

(評価:★5)

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