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[コメント] ゴダールの決別(1993/スイス=仏)

映画という、映像と言葉で物語る行為についての新たな冒険。この冒険行を登山に例えるとするならば、ゴダールは未踏の山をあるときは北壁から、別のあるときには南壁から、そして、時には厳冬期を好んで選び昇っていくようなところがある。
ジェリー

この映画は、物語としての全体性を剥ぎ取られコンポーネントと化した映像群が、何十本ものトカゲのしっぽのようにばらばらに動き回って切片化した意味を吐き散らしながら、同時にある男の憑依体験の一部として意味の全体性を回復しようとする運動をそのまま捉えたドキュメンタリーのような映画であって、この映画が失敗だとか成功だとかいう評価を下すことは最初からゴダールによって許されてはいないかのようだ。観察しすぎてその物に当初抱いていた先入観を剥奪された物体と対面しているような不思議な感覚を見る者は味わうだろう。それを美的体験と人はいう。

何から語っていいのか優先順位が決まらない映画なのだが、とりあえず間違いないのは、全能者としての映画制作者であることを、倫理観によってなのかというか方法論としてなのか判別しがたい形で放棄したゴダールが、自らの営為をてれるかのように「シモンとミシェルについて(注:二人の主役男女の名前)話すことはない」と言い放つ人物を自分の代弁人として登場させつつも、「だれのまわりにもある目に見えぬ夢」とも「記憶を拒み語られることを望まぬ存在」ともいう何かについて語り続けようとしているのであって、錯乱に終始した挙句ラストで「まず石を投げよ」というアジテーションでこの映画を終わらせている姿勢の中に、なにやら仁侠映画における高倉健だの鶴田浩二だのが扮する主人公の姿勢にも似た悲壮感を漂わせ、なおかつ、83分の短尺の映像全体がとびきりの瑞々しさを湛えた映画になりおおせているという事実に、明晰な酩酊とでもいうような快感を感じざるを得なかった。見ることの厳粛さを見る、見る器官である自分の眼を自分の眼で見ることを強いられる。この矛盾に耐えることもまた快楽である。

(評価:★3)

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