コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] コレヒドール戦記(1945/米)

ジョン・フォードが、自らの理想とする男たちを描くとき、それはすべて「静かなる男」なのである。本作品を見ていてもあまりスカッとはしないだろう。この映画は映画を見ることのカタルシスから意識的に決定的に離れていくことを目指しているのだ。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







太平洋戦争史上、アメリカ合衆国が最も苦難を強いられた戦いがあえてとりあげられている。苦難のときにあっても、信念を持って黙々と与えられた役割をつとめ、期待にこたえようとするアメリカ人の静かで不屈な楽観主義をたたえたかったからだ。当時の理想の国民像を描いたこの映画は、その意味では国威発揚のプロバガンダ映画ということもできる。しかし、民主主義の成熟しない諸国において作られたその手の映画とは志のレベルも、国民への親和力・影響力の大きさも、比較にならない次元に達する。ある個人のビジョンの中に国家の理想、あるいは理想国家のビジョンがが分かちがたく血肉として息づいているからだ。戦っている敵への憎しみとして国民意識が受動的に成立しているのではなく、権力者へのおもねりとして成立しているのでもなく、鍛えぬいた強いボクサーの戦闘意識のような次元で国民意識が成立している有様を見よ。このあり方がこよなく美しい。

戦闘シーンの描写の迫真性は、このテーマ性と密接に関連する。緊張感を強いられる状況と隣りあわせで生きていくこと、それ以外に人生は成り立ちようがないではないか。 そこから逃げようとするとき、大切な何かを人は失うのだ。その、失いやすいものを失ってはいけない、それをフォードはいいたかったのだと思う。

静かなる男』のコメントで書いたので、いまさらここではくりかえさないけれども、フォード映画の登場人物は世界神話のそれであるから、ドナ・リードのごとき途中で消えてしまうような結末のつき方は、まったく問題ないどころか、かえって香気漂う余韻すら感じさせて、それがよい。『荒野の決闘』のクレメンタイン・カーター嬢同様、こうしたマドンナ・イメージは、ジョン・フォードの引き出しにある、ひとつの女性類型なのだ。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。