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[コメント] グランド・ホテル(1932/米)

良く言えば観念的悪く言えばままごと的な演技のガルボと、ナチュラルで肉感的な演技のクロフォードの競演が、不思議な媒介力によって水と油にならないどころか、主要出演者全員が主役ともいうべきこの群像映画が放つ光彩の中でもとりわけ輝かしい光にすらなっている。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この不思議な媒介力が何によって生まれるかというと、それはホテルという舞台の設定によってである。この映画においてホテルとは俳優が動き回る背景という具体的な位置づけを持ちつつ、同時に、説話上は様々な種類の登場人物を受け入れる懐深い受容のシステムとして機能する。

妻の出産を待つフロントのチーフを映画の中に点綴した意味は深い。どれだけ徹夜しようと定刻にきちんと髪をきれいに撫で付けて出社するこの男の存在は、グランドホテルの従業員の質の高さを雄弁に語り、ひいては、それがこのホテルの受容のシステムとしての質の高さまで暗示する。

この類まれに機能的なシステムの中で、どのような人でも人が人として活動しており(大金を払う限りにおいてはという条件はあるのだが)、速記者は速記者あるいは経営者の愛人として、経営者は経営者あるいは泥棒殺害の犯罪者として、泥棒は泥棒あるいはダンサーの恋人として、さらには子犬の主人として生き生きと動き回る。一人の人間が最低でも二つの役割を持っていることに注目しよう。これがこの映画のテーマに直結している。

一人の人間はいろいろな人間と多様な関係をとって生きている。多様な関係に法則性はあるのか。何もない。美しい速記者は金のある経営者よりも余命いくばくもない労働者との関係を大事にし、才能豊かな誇り高き美貌のダンサーは哀れなホテル泥棒を愛してしまう。こうした関係の驚くべき偶然性と無原則性にこそ人生の妙味も苦味も生まれてくるということをこの映画では言いたいようである。そこにこの映画の不思議な媒介性、開放性、永遠の前衛性とでもいいたくなる輝きが生まれる。この映画は整合性や、一貫性といったものを忌避している。人生の様々な選択の局面で人は他者と無原則に関わらざるを得ず、そこには矛盾や破綻を含むことをおおらかに肯定する。映画が制作されたのが1932年。大不況の直後、経済合理性ひと筋に走り始めた時代の中で、もういちど1920年代的感性の回帰を希求した深い傑作である。

その意味で、この映画が、何人もの電話交換のオペレーターが回線と回線を縦横無尽につないでいくシーンでスタートしているのは実に至当だ。途中でももう一回同じ光景が映し出される。繰り返されているのは、このシーンのシンボル性を監督が重視しているからだ。この映画は「関係」についての映画なのだ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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