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[コメント] プライベート・ライアン(1998/米)

透けた星条旗、アメリカ、アメリカ、ライアンの悲哀、そして『タイタニック』!?

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







上陸シーンはみなさんがわかりやすく書かれているので省きます。ちょっとだけ、あのシーンの‘リアル’について考えたのを書いています。(※注)

さて。

傲慢な‘偽善’としてのアメリカの論理とスピルバーグ的なヒューマニズム。

わたしは『プライベート・ライアン』がそれらの映画にはまったく思えません。そんなことは、スピルバーグはいちいち指摘されなくてもわかってるでしょう。たとえばですが、ある映画監督が‘意図的’にXを映画に引用したとします。それなのに、映画評論家がXの引用を指摘することに何の意味があるでしょうか。つまり、「Xの引用をわかっていてやってる」のに「Xをやってるね」と言うのは、XはXであると言ってるに過ぎないのです。だとすれば、スピルバーグはここで、アメリカ的な偽善とスピルバーグ的なヒューマニズムを‘意図的’に演じているのではないか、ということです。何度か挿入される透けた星条旗が意味してるのはそのことに他ならないでしょう。

では、『プライベート・ライアン』におけるスピルバーグの演技の理由は一体何なのか?もちろんそれは、アメリカ批判と自己批判に他なりません。徹底的に演じきることで、内側から食い破ること。それです。とすれば、この映画は(行き過ぎた)個人主義(=アメリカ!)批判なのではないか、と考えられます。

たとえば、そもそも個人(=プライベート)を救うために国家が動くことに詐術があります。個人(ライアン)を救うために国家(アメリカ)が動くことによって、逆に個人(8人の兵士)が蔑ろにされているのです。過剰な個人主義が実は、過剰な国家主義へと裏返っているのです。

更にスピルバーグの演出が秀逸なのは、‘助かってしまった’ライアン老人の姿を、いい様もないほどの「悲哀」で描いていることです。たとえば、もしこの映画をアメリカ的だと批判するとしたら、あの悲哀はやり過ぎだと思いませんか?もしぼくが典型的なアメリカ人監督だったら、生き残ったライアンに「希望」を託すでしょう。「わたしは彼らの命の犠牲によって助かった。だから、彼らの分も生きていかなければならないんだ」、といった風に・・・・・。しかし、スピルバーグはそうしなかった。なぜか。おそらくそれは、(プライベート)ライアンは「生きる必要」なんてなかったのに生きた、ということを刻み付けるためではないでしょうか。他の人の死を犠牲にしてまで自分が助かる必要があった理由が実はどこにもないということをライアンは知っている(たとえば、戦争で子どもをすべて失った親など腐るほどいたでしょう)。しかし、それでもライアンは生きてしまった・・・・・・いや、そもそもそれが「生きる」ということなのだ・・・・・・。そこでは、アメリカ国家も何の役にも立っていません。そしてヒューマニズムもです。ヒューマニズムとは人の命にいちばん重きを置くということですが、命が守られた‘後’には何の役にも立たない。

プライベート・ライアン』はあまりに「孤独」=プライベートな映画なのです。そしてライアンが、生きる必要がないのに生きなければならなかったということ。この「ならない」こそがスピルバーグが捉えたかったものなのかもしれません・・・・・・・。

余談ですが、この物語の構造とひどく類似する映画があります。『タイタニック』です。老人ライアンの回想で始まり、回想が閉じることで終わった『プライベート・ライアン』と老婆ローズの回想で始まり、回想が閉じることでで終わった『タイタニック』。さらには、両方とも、自分の命を「誰かに」救われている。そして、両方の映画が、命が救われた‘後’の人生をほとんど描いていない。提示するのは、ただライアンとローズが「生きた」のだということだけ。(他にも、二つとも史実を描いており、「ノルマンディー上陸」シーンの‘リアル’さと「タイタニック沈没」の‘リアル’さが一致しているのかもしれないということ)。

90年代を代表するこの2本の映画の類似は一体何なのか?

気になります。

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(※注)わたしは詳しいリアリティ論はわかりませんが、戦争映画の‘リアル’の位置は、今の日本人にとって少しズレているのは言うまでもないでしょう。つまり、見たこともない戦争の戦争映画に‘リアル’と感じている(沖縄と対馬の人たち以外、直接に上陸作戦によって本土を攻められたことがないのですから)。テレビと映画でしか知らない。

ということは、テレビと映画の中に‘リアル’がある。つまり、ドゥボールの「スペクタクル社会」のように、‘リアル’の位置がメディアの中にしかないということ。そして、そういう意味で、戦争映画やニュース映像(これ、わたし見ましたけど、まるっきり『プライベート・ライアン』の上陸シーンとほとんど同じです)の‘リアル’を引用した『プライベート・ライアン』は‘リアル’だった。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (16 人)ぽんしゅう[*] 死ぬまでシネマ[*] たかひこ[*] 蒼井ゆう21[*] ビス G31[*] peaceful*evening[*] muffler&silencer[消音装置][*] 4分33秒[*] ALPACA[*] フランチェスコ[*] オメガ crossage[*] kazby[*] sawa:38[*]

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