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[コメント] どこまでもいこう(1999/日)

ありふれた団地でのありふれた少年の物語。ちょい悪オヤジじゃなくちょい悪男子。
torinoshield

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







舞台は東京多摩地区、永山という所で京王線と小田急線が走っている典型的なベッドタウンだ。ここの街並みはまさに(役人に)作られた街。役人が思いつく区画というと東西にきっかりと区切られた札幌や国立市の様な区画をイメージしがちだがここはそれを反面教師としてなのかおもいっきりぐにゃぐにゃと道路が曲がっている。逆にその意図が明確である為ますますもって人工的な感じがしてしまうのだが。ちなみにスタジオジブリの『耳をすませば』などもここからすぐ近くの丘がロケ地となっていて雨上がりの風景でここの舞台が映っていたりする。

人工的と言ったら映画作りは究極の人工モノである。それをいかにして自然に見せるのかは作り手の見せ所だがこの作品は少年時代のありふれたテーマを扱う事によって人工的である、という印象を見事に希薄にしてみせた。

本来なら主人公の友達が死ぬなんて余りに映画的過ぎるものなのだが全く逆説的な多摩センター永山地区という作られた街を持ってきたのは案外人工的な設定に永遠の不変テーマを持ち込みコントラストを上げるという意図があるのかもしれない。

ちなみに主人公にセリフを多く語らせない技法に関してだがテレビゲームでのドラクエやマザーがこの手法をとっていて単純な利点としては鑑賞者が主人公の思考の肩代わりをする事になるわけで下手なセリフを吐かれるよりは断然心地良いというものがある。と、同時に作る側が鑑賞者側に何かを感じ取ってもらう様に配慮しなければならないわけで必要以上に演出に気を使わなければいけない。つまり監督はわざわざ苦難の道を選択しているのでありそれを受け手に伝える自信があるという事なのだろう。

そしてその方法は受け手であるこちら側に見事に伝わっているわけでこの点に関して邦画の伝統を受け継ぐ人であるなぁと思ったりする。

*冒頭の自由に走るシーンと最後の小山の上での歩きは少年時代から青年時代への移行という意図なのかもしれない。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ボイス母[*]

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