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[コメント] GOEMON(2009/日)

なんて言うかエキサイティングでファンタスティック。言葉にならない!と、興奮したかった所だが、違う意味で「言葉にならない」としか言いようがない。
ピロちゃんきゅ〜

「言葉にならない」ほど監督の熱意にもオレの腕の中にも「茶々」を入れたいわけだが、まず最初にこれだけは監督に伝えたい。いくら何でも「勝った!」は無いだろ(参考「情熱大陸」より)。

と、そんな限定メッセージはさておき、最近のシネスケにおけるオレの存在意義といえば広末涼子に対する公開ラブレターでしかなく、誰に読ませたいってこの世に一人しかいないキミの為にルルル〜みたいな内容なわけだが、この映画ほどラブレターにする事が難しい映画も珍しい。はっきり言ってヒロスエ出演映画でここまでヒロスエが意味無く感じたのは『ざわざわ下北沢』以来ではないか。こんなグダグダな作品に堂々と客寄せの為に起用されたとしか思えない我がヒロスエ茶々姫の大事にされなさっぷりが余りにもホンモノの茶々姫ばりに悲しかったのと、この監督には俳優という素材は記号でしかなく誰がやってもオレ様が作りこむぐらいの相変わらずのナルさ全開が余りにも痛く飛んでたので、「万点です、さすが!」と5点を捧げる事にした。はっきり言えばヒロスエ出てなきゃ見てないし見た所で2点が限界。『キャシャーン』並って感じだろうか。

しかし、ヒロスエがいる。それだけで5点満点なのは当然として、何をやっても広末涼子ってのはもはや王道、絶対領域なのだが、今回のヒロスエには奥行きが足りない。足りないというよりも、まるで無い。まるで素人カメラマンのスナップ。妙な格好の変な頭をした綺麗なだけの女の子に仕上がっている。て、また愛のムチかよオレ。いいかげん辛いぞ。まあ、この奥行きの無さはヒロスエのせいじゃなくてキリヤ演出のせいだとは思うが、この映画の撮影期間が2007年夏前後という事で、『おくりびと』の撮影後〜半年ぐらいということになる。あちらのコメントで書いたように色々あった2007年春の凹んだヒロスエの後遺症がまだこの映画の演技に滲み出ているのかもしれない。つまり、このキリヤの演出力の無さと相乗してこうゆう奥行きの無いヒロスエ姫が完成するという事なのだろうか。もういっそキリヤらしく、実はこのヒロスエはヒロスエが演技したものをモーションキャプチャしてCGで書き直したヒロスエなんですってぐらいだったら感動を通り越して呆れるぐらいにビックリして賞賛しただろう。やるならそこまでやって欲しかった。

にしても、登場シーンから毎度おなじみの空を見上げてフーと息をつく展開から「いつものヒロスエキター!」感があったのだが、今作ではとにかくヒロスエがおたまじゃくしにしか見えない。ウチのカミさん曰く「髪型が変すぎる。やっぱりこの人はショートカット以外ダメなんじゃないか?」という指摘に敗残兵のようにうなづくしかなかった。いや正確には頷いたあと「いや、ダメじゃないよう」と反論はしたが既に憤死状態。おたまじゃくしのインパクトには勝てなかった。さらには今回とにかく気になったのは髪型以上にヒロスエのセリフ回しだ。奥行きが見えないおたまじゃくしヒロスエが発するという事に違和感があったのかもしれないが、そもそもヒロスエが凛とした礼儀正しい姫って時点で苦しい。オレは判ってた話だが、相変わらずヒロスエのしゃべりは丁寧な言葉使いとなるとヒロスエ度が下がる。言わされてるセリフになっちゃって気持ちで喋るのができなくなっちゃうというか。現代劇で友達同士のアドリブで話すぐらい砕けないとヒロスエらしさが上がらないという、この、なんという間口の狭さ。最高すぎる。せっかく時代劇であって時代劇じゃない設定なんだから、ヒロスエもおもいきり砕けて普段着な姫であった方がらしさが出たんだろうが、キリヤ的には「クラシックで透明感のある人」というニュアンスでのヒロスエだというから、オレが知る限りの一番光るヒロスエを封印せざるをえなかったんだろう。キリヤがヒロスエを知らな過ぎるかオレしかヒロスエを知ってないのかどっちでも良かったんじゃないかと思う。いっそウタダに土下座して茶々をやってくれ言った方が話題になった上にインパクト強かったのにと思うと残念だ。

と、まあ、ヒロスエをヒロスエレベルに撮影できなかった所はこの際ヒロスエにも責任があるとして10000歩譲歩して我慢したとしよう。でも、そもそもな話だが、茶々がヒロスエである必要性がまったく無いどころか、茶々がストーリーに必要な存在だったのかすらが疑わしい。ライバルとの対決、恩師の仇討ち、天下統一の戦い、とにかく男と男の戦いの中に唐突に放り込まれる姫。まるで真剣勝負に茶々を入れる茶々という役。もしかして、ダジャレ??キリヤならやりかねない気がしてきた。怖すぎる。正直、ストーリーの核から言って茶々役はどうでもよかったのではないか。

せいぜいオレと同世代の考えそうなネタでいえば、ドロボウが城のてっぺんに閉じ込められた姫とラブラブな展開〜なんて言えばアレしかない。誰もがパっとイメージするだろう『カリオストロの城』だ。今回の茶々役の本来目指したイメージはまさにクラリスなんではないかと思うが、カリオストロにおけるクラリスたる存在感まで持っていくほどキリヤ監督から「茶々」に対する熱意が感じられなかった。いや、キリヤ監督から「カリオストロ」に対する熱意が感じられないのか。すごく軽く「あー、あの映画ね。好き好き」とか言ってるレベルでのイメージ演出っていう感じがする。その証拠が、ここそこに見てとれるカリオストロのシーンのまねごと達。いっぱい在り過ぎて笑えるレベル。なんだけど、その全部が「表面的な所のみ」という素人のモノマネ大会じゃないんだからさレベル。こんな所がしょせんPV屋なんではないかという感じがして泣けてくる。本質で真似てくれるならば「あの映画を好きなんだろうなー、さすが」と思うのかもしれないが、なんか絵だけ似せればオマージュしてるみたいな勘違いをしてるんじゃないだろうか。って、んなの最初から目指してないから〜なんて監督からいわれりゃそれまでな論点だけど、パンフの中で江口くんが監督とルパンの話をしたと書いているので間違いないだろう。ヒロスエのイメージ作りの本当の所はそんな所が答えじゃないか。カリオストロの、いやクラリスの何が良かったのかが判ってないでマネ状態。それはかなり危険だ。危険な上に不要すぎる。どっかり抜いた方が黒澤明級に思い切りのいいヒロイン無し映画になったのに。ま、そうなると確かにオレは見ないだろうけど。

たぶん、キリヤ監督にとっての女優は、少年マンガにパンチラするおさげの女の子がなぜか無意味にいるのと同じように、映画の中には必ず綺麗な女がいるっていうだけの記号なんだろう。まあヒロスエでやってもらっては困るが、どうせ女優という記号が必要だったのならばいっそ、秀吉にいたぶりしゃぶられる茶々(奥田瑛二ちょーはまり役)、ゴエモンとのラブラブ茶々(←愛のコリーダ的な)、十字架に張り付けられてレイプまがいな刑罰を受ける茶々(←花と蛇まんまで)、実は三成ともラブラブで子供できちゃったけど内緒よという悪女的な茶々(←「事件」の大竹しのぶ的な)などなど、女優を使うならではの見所を作れたハズだ。キリヤ的にはこの映画にはそんなおっぱいは不要という判断だろう。きっと「女優つかって裸でも見せりゃいいなんてのは違うね」と否定するだろう。確かに意味なく裸だせば売れると思ってる監督が多い中、無駄な裸(例・星野真里)ほど客をバカにした映画はない。が、このキリヤ監督に対しては違うねの前にやれないだけの話しなんではないか。きっとボクちゃん恥ずかしいんですよ。オレと一緒で子供だから。ヒロスエによれば、ゴエモン江口とのラブシーンも撮ったらしいが編集でカットされたそうだ。やはり生身の人間同士のラブシーンはキリヤ的には違うんだろうな。違うのか気恥ずかしいのか判らないけど。ていうか、イメージ的にはルパンがクラリスをやっちゃったみたいなもんだから、それは幾ら何でもNGだろとオレでも思うが。

まあ女優に限らず、キリヤ的には俳優という人間たち全部が記号に見えるのかもしれない。その演技が好きか嫌いかは別にして奥田さんと平さんと橋之助さんは監督の意図を超えるか外れるかしてたお陰で目立ちまくっていた。江口くんと大沢くんは動きにCGを当てられて違和感まるだし。その他は役になりきる前に画面から外れるという暴挙。これほどもったいないキャストの乱用映画は滅多に見れないのではないか。監督いわく、これでもかなり削って削っての2時間超だという。削ったからこうなっちゃったのかもしれないが、要は初めから要らないキャストとサブストーリーが多すぎるのだ。主要キャスト12人・サブキャスト14人の大所帯。ヒロスエ茶々姫は保留したとして、どう考えても不要なキャストは玉山・チェホンマン・サトエリ・トダエリ・佐田・鶴田・藤澤・子供、と、3割方は無駄使いだ。特に女優陣が全滅。女を使えないヤツという称号が最も似合う監督なのではないか。彼女らと彼らの無駄使いっぷりがむしろ監督の「みてよ、この使いかた。豪勢でしょ〜」という自己満足にすら感じる。それは単純に俳優に対するオゴリだと思う。監督にとって俳優は記号にすぎないという証明ではないか。いくら口では「人間を撮りたい」なんて言っても撮れないのではプロとは言えないだろう。

この無駄なキャストとサブストーリーを抜いて初めてヒロスエ茶々姫の存在感が増すのではないかと思うのだがどうだろうか。最初からヒロスエに今は泥棒はできないけれどきっと覚えますぐらいのテーマでも与えればヒロスエならなんとかおたまじゃくしがカエルになるレベルまで進化するのに〜と、オレは信じるんだが。きっとオレのハートだけは盗んでいくに決まってるし、なんて気持ちのいいヒロスエだろう!みたいな感じにはなるだろう。したら両目でウインクしてやってもいい。

と、そんなヒロスエを上手に撮ってくれなかったせいで長々と批判だらけだが、最後くらい誉めてあげてやってもいい。実は前作『キャシャーン』に比べれば、ずいぶんとマシになった。今さらみたいな言い方でスマンが。それだけ『キャシャーン』が酷かったというオチとも言えるが、キャシャーン以降、キリヤもだいぶ人間が叩かれたというか自信をこそげ落とされてまた肉付けしたって事だろうか。今回も人間を書く事はできなかったが今回は話があった。やっぱり甘めな主義主張を堂々とセリフで言い切るあたりは変わらなかったが映像のスピードに見合った展開をみせた。ほう、ずいぶん上手くなったもんだなと素人でも判るぐらい映画になっていた。ま、確かにヒロスエ出てなきゃ見てないけれど。

と、誉める事はこれだけなんだ。無理矢理ほめようと思ったけどやっぱり無理。すまん。かなりマシにはなったが、映画としては相変わらず3流で、なぜにこの人が大作を撮れるだけの色んな力を持っているのだろうかと、そんな映画の外の部分ばかりに興味がいく始末だ。冒頭でもコメントしたが、情熱大陸でのキリヤの言動をみてると、その熱き想いだけで突き進んでいるようにみえて、その実、何を実現したいかというビジョンがあるわけではないという「とにかくやらなきゃ!」って言ってるだけの猪型人間のようだ。口のうまい猪。もう少し考えて行動する事がこの人を伸ばす最も的確な指示のような気がする。今のままでは映像の加工屋にはなりえるけれど小説家にはなりえないって事だろう。少なくとも脚本は100%他人に任せるべきではないか。ま、それだと映像が想像できないと言う話なんだろうが。要するに作るのもオレ様なら演じるのもオレ様で見るのも拍手を送るのもオレ様でいたい人なんだろう。だったら大金かけて制作したものを自分と自分のシンパだけを集めて楽しむぐらいが一番贅沢で楽しいような気もする。何もわざわざ叩かれる為に盛大に公開せんでもいい。しかも2回も。周りに「さすが監督!」と煽てる悪いヤツがいるな。信長を乗せるサルみたいな。一番のワルはそいつ。この監督に罪はない。ただ能力が薄く偏っているだけ。自分の映画をみて真っ先に「勝った!」なんて絶叫してないで、もっと客観的に自分を見つめて人生やり直せと言いたい。

と、結論を書いててふと『キャシャーン』の時、オレって何かいてたんだっけ?と思って調べてみたら、まだ未投稿だった。コメント下書きはしてあったので読んでみたところ、下記の一文が結論として書かれていた。

「なんだかんだ言いつつ、一番「なんだかなー」と思うポイントは、こんなしょうもない映画を撮る男が同世代(しかも代表株として)かと思うとかなり情けないって事だ。もう1回人生を仕切り直してきた方がいい。ほれ、そこのプールに浸かりな!」

何ていうかびっくりしたのが、やっぱり数年前も同じように「人生やり直せ」と指南している点だろうか。キリヤが進歩してないのは判った。が、まさかオレも進歩してないって事を見せ付けられるとは、なんというかファンタスティックでエキサイティング?言葉にならないヨョョ

(評価:★5)

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