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[コメント] 鍵泥棒のメソッド(2012/日)

このヒロスエはヒロスエであってヒロスエではない。しかしながらオレが愛するヒロスエとは寸分も違わないのもヒロスエ(←事実と読め)である。もう何でもいいや。ヒロスエだから。
ピロちゃんきゅ〜

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「健康で努力家」これはまさに内田監督自身なのだろう。この綿密で計算的な演出の作風はかなりの努力家ゆえだと思う。監督の映画に対するスタンスのメソッドがまさにこの努力型であって、いわゆる天才肌のそれとは一線を画している。過去作の方が「頭でっかちでインテリの笑い」だったと思うのだが今回は随分と色が違う。ずいぶんと硬さが取れてしなやかな脚本になった。しかし、しなやかすぎて一本調子に近く、限りなく”普通”ではないか?なんというかRPGゲームのシナリオ感に近いというか何というか。どちらか言えば、あ?その角度でうっちゃるの?で、うっちゃった先にはそうだよねー、そうなるよねーみたいな「驚き」と「安心」がごっちゃになっているのが内田脚本だと思うんだが、今回はシンプルで頭でっかちなのは一緒なのに、ずいぶんと役者に笑いを丸投げしている感がある。セリフで笑いをとらず、役者の動きや間で代用した感じか。いや、たぶん、監督が思う「面白い間」を香川なり堺なり荒川なりが自分で表現して、監督がそれに乗ったっていう感じかもしれない。監督が意図して作った笑いは最初の風呂のシーンとヒロスエ全部ぐらいのものだったんじゃなかろうか。そう考えると、この映画は香川照之というバケモノがすべてを作ったわけで、堺さんがむしろ脇役。中車と涼子のラブソングだったわけだ。ああ、かわいかったなぁ。でもオレだったらもっと可愛くて面白くて色っぽいヒロスエの映像作れるのにオレの頭の中だけでしか上映されないのが残念でならない。ま、他人には見せる気は無いけど。

どちらかといえばヒロスエは「天才型」に近い(←天賦の才という美貌)。演技に関してそうゆう努力をしているとはとても思えない演技(最終的にはその役のキャラクタを何も考えてない普段のヒロスエというキャラクタへ強引に同一感へ持っていく演技)、この他人になりきるのが役者というスタンスの人からみれば天地がひっくり返るような演技をするけどもすべて許される存在感。内田監督にしてみればヒロスエである必要はないはずだ。しかし監督はヒロスエに白羽の矢を立てた。突然神がかる蒼井優とか何も喋らないでいれば綾瀬はるかだとかの方がイメージに近いかもしれない。しかしそこをあえてヒロスエ。行き遅れの婚活中という年齢制限かもしれないが、香川さんが言うように「あなたなら断るような男はいない」というように、正体が判らなくても許されるのがヒロスエなのだとオレも思う。この相手がまじめで健康であればだれでもOKだぜ!言いながら、なんか釈然としない、恋知らずなヒロスエの設定は現実味がない。いや、超箱入り娘の34歳という現実味がない設定が面白いじゃない?なんて言われたらそうですねとしか言いようがないけども。

そういえば、コメディエンヌヒロスエとかヒロスエ新境地とか言われてるけど、今回ってヒロスエが切り開いたでもないし監督が作り上げただけだし、そんなの、ただのヒロスエを知らない人のたわごとだよね。そもそも、『WASABI』であり『バブルへGO』であり、その他「ヤスコとケンジ」みたいなドラマだって何度もヒロスエはコメディエンヌとしての才能が豊かで…と言われている(オレとかに)。今回も「新たにコメディエンヌという新境地を切り開いたヒロスエ」なんていう売り文句で宣伝しているが、何回コメディエンヌという新境地を切り開いてんのかと。毎度毎度「おぉ!いつもの涼子、安定の涼子だぜ!いろいろ考えた結果、何も感じないで役になりきる、いやむしろ、その役がヒロスエになる!という涼子メソッド、完璧すぎる(オレには)」とオレにまたも叫ばれるだけだ。ま、今回はいつものヒロスエいうても目を閉じて背伸びしながらんん〜気持ちエェー!みたいなシーンもなく、とことん笑顔を消して無表情に近くして、メイクも抑え気味にしてと、ヒロスエの表面の良さをよく引き出している上に、間の取り方がコント仕立てで、うっかり「ヒロスエの演技が素晴らしい」と勘違いさせてくれる作りだ。これでヒロスエがあと何回か離婚結婚出産しても女優でいられる。よくも慎吾ちゃんの呪いにめげずに頑張ったと。それだけ、この映画におけるヒロスエは「女優」っぽい。女優らしく見せてくれた。こんなヒロスエを撮ってくれた監督には感謝したい。ただ、こんな制限ギリギリの縮こまったヒロスエは何度も使えないだろう。ゼロに続いて(続いてないけど)2回もこんなに苦しい仕事をさせられたら嫌になって仕事ほうりだしかねん。「自由にしなよ」言うと何もできないが、自由にしないと演技できないのがヒロスエ。オレの女神である。キミはキミのままでいい。オレは解ってる。次はもっと自由に弾けて欲しい。

ま、次もSMAPの呪いが掛かってるのが怖いが。

というわけで、ヒロスエの事はもうすぐ次作がやってくるからこの辺にしといて、最後にこの映画の設定の話に戻そうと思う。

人は筆跡だけでキャラクタを展開できる。堺さんのなよっとした字体に自分を重ねて「あぁぁあぅあぅ」と声が漏れそうになった。現状の自分は「健康と言えなくもないが怠け者」でもある。これを20年ぐらい続けている。さらに、堺さんのヘロヘロ文字に限りなく近い感じのヒョロヒョロ文字=人生の年齢でもある。つまり、自分の現状は限りなく堺さんに近い。それだけでも、十分に凹ませるキャラクタ設定だった。だって、何をどうやっても成功者になろうとする香川さんの生き方は出来そうもない。人生のこれからも否定されたような感じを受けた。なんとなく、映画のエンディングをみてて、「これで終わりではダメ人生の方が救われないではないか」とのやりきれない思いにかられた。堺さんの人生は何も救われていない。時計をもらって、何かある度にあの時計をみて奮起するまでは予想つく。でも、カレのあのキャラクタからすれば新しい恋をした所でだらしない性格は治らないし、ぐちゃぐちゃな生活は変わらないし、努力を始めれば最初の数十分でやった気になって大口を叩くだろう。すべてを象徴していた「筆跡」がビシッとする事もない。要は何も変わってないって事。オレはてっきり最後は彼女ができるんじゃなくて、整頓された自分の部屋の机の前で正座して日ペンの美子ちゃんのパンプをじっと見るとか(←未だにあるか知らないが)、おもむろにストラスバーグの9ページ目を開くとか、桜井(香川時代)の大部屋仕事が縁でどっかの事務所から声かかるとか、そんな方がまだ未来を感じられる。ネコとオンナに騙されるのは素人だけだぜ!みたいな。

てわけで、まず日ペンが必要なのはオレだったという事だ。あらためて「努力せいよ、オレ」とオレに怒られる始末。うん、わかってる。わかってたってば!そう言ってうん十年。それがオレ。まずはカクカクした字を書けるようになる。それが人生目標なのかな。ソレさえできればヒロスエがついてくる。安いもんだ。と、この映画を劇場で何度か見てから既に半年ぐらい経って今更なんだが、とりあえず明日から、いや、今週はアレだから来週あたりからいろいろ頑張ろうと思う。オレはやるぜ!必ずとオレが言ったら必ずだ。たぶんな。

(評価:★5)

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