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[コメント] 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア(1988/日)

ガンダムの主人公は、シャア=ジオンだった。そしてその終焉に希望の残滓をみる。
SAYONARA

本作品のTVシリーズにおいては視点をアムロやカミーユ側に置き、シャアを間接的、客観的にみせることによってより存在感を強調させてきた。ご存じの通り、富野氏は自身の作品を主人公を「殺す」ことで終わらせてきた(イデオンなど)。アニメのハッピーエンド的楽観主義へのアンチテーゼであったとも取れる。が、ガンダムにおいてはそこにイデオロギー的な欲望があったようにも思える。たとえばファーストガンダムの原作の小説においてはアムロ=連邦(右派)は死亡している。TVのガンダムシリーズの歴史はシャア=ジオン(左派)の歴史だった。皮肉にもこの作品は、TVのガンダムシリーズをシャアという人物の最期を描くことで収拾を付けるというかたちになったのだった。しかし、実際のところ、曖昧な決着のつけかただったといわざるを得ない。この映画のエンティングをみた人の多くは「これで終わった!」とは思わないはずで、何かが続きそうな予感や消化不良を感じてしまったことだろう。故にターンエーガンダムで、再度とどめとしての「ガンダム殺し」を行ったという見方ができる。この富野氏の「殺し」の発想の根元は「現実に帰れ」と突き放す某作品のそれとは異にしている。ラストで現実への帰還の余韻を充分のこしているのは、思想における現実の、希望の見えない殺伐としたものを容認しえない富野自身の葛藤だったのだろう。つまり、シャアの生死を曖昧にすることで希望を残したというわけなのだ。

おまけ*機動戦士ガンダムのポストモダニティ?

富野の主人公殺しがハッピーエンド的楽観主義へのアンチテーゼだ、というのは当然アメリカ帝国主義の暴力への反省を促す意味なども含まれているのだが。ファーストから逆シャアまでの一連の流れとしてみた本作では現代の社会領域における思想の敗北を写した姿への復讐も伺える(カミーユがそれ)。さて、東浩紀のいうに「大きな物語の後には小さな物語が氾濫する」のだが、この言葉の解釈に新しい切り口を加えて、ガンダム本編のオマケ的なもの、パロディや2次作品レベルのガンダムが氾濫したという状況から推察できることは、本作品への消費動向は単なる大塚英志のいう「物語消費」というものではなく、またガンダムという作品が近代的自我の発生から現代までに至る時代を写す大きな戯画であるだけでなく、「大きな物語」というひとつのポストモダン言説の一部をなすナラティブの2次作品だったのではないか、ということだ。まさに80年代的なガンダム批判とポストモダンへの皮肉として逆襲のシャアが捉えられるのだ。シミュラークルのシミュラークルはアイロニカルな変形を遂げながら延々過剰生産を繰り返す。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)秦野さくら

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