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[コメント] 非・バランス(2001/日)

ふり幅が短いわりにふり幅は長い。でもすぐにバランスが整う。だから不自然なんだけど、思春期な人達にしてみたら自然なことなのかもしれない。
蒼井ゆう21

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この映画では、原因と結果、結果からの回復、といったことのプロセスが不自然に見える。 それを天秤のふり幅の「短い」・「長い」を、物事の深刻さの程度の「低い」・「高い」にしてみて考えたい。

例えば飛び降りのシーンでも、いじめ(原因)があって、飛び降り(結果)があったのだけれど、その左のふり幅=いじめ、があまり詳しく、リアルに描かれていないような気がする。だから左のふり幅は「短く」(原因がたいしたことない、少なくとも飛び降りをするほどではないように思われる)なるのだけれど、その割に(片方のふり幅が短い割に)右のふり幅=飛び降りは、大きな・深刻な結果すぎて、その左のふり幅の短さに比べて、ふり幅が「長」すぎる(深刻すぎる)ような気がする。しかし、今度はそのふり幅の長さ(深刻な事態)のわりに、元に戻る(飛び降り少女が回復する)のはあまりにあっけなく、簡単(ふり幅が短い)なような気がする。

要するに、左 右 という天秤があったとして、左が上に傾けばそのまま右は同じだけ下に傾くというのではなく、例えば左がいくら重く、ふり幅が長くても、右はその長さの割に簡単に元に戻ることができる。このような通常なら考えられないようなことは、中学生や、思春期の人達の「可塑性」として示すことが可能かもしれない。ある時は小さなこと(短いふり幅)に、大きく(長いふり幅)傷ついたり、しかし、ある時はその長いふり幅のわりにあっけなくふり幅が戻ったり(回復したり)。それは一見不自然に見えるかもしれないけれど、そんな不自然さ(小さなことにいちいち傷ついて、でも結構忘れるのも、回復するのも早かったりもする)が、中学生のころ、思春期な人達にとっては、自然なことだったりもするのかもしれない。この映画の、飛び降りするほどでもないんじゃないの?と思えたり、いじめっこが夢に出てきたりそれでイタ電するほどのもんかな、と思えるようなあまりその痛さが伝わってこない「いじめのシーン」、や、その割に深刻な飛び降り自殺未遂、という不自然さは、単なる「そのシーン(原因)を描くことの甘さによる結果に対する弱さ、不自然さ」というのもあるかもしれないけれども、それよりは、そのような不自然の自然さ、というもののほうを僕は映画を見て感じました。

(評価:★3)

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