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[コメント] 自転車泥棒(1948/伊)

被害者ゆえの加害者になるぐらいなら、いっそのこと圧倒的な(推定)加害者の立場にあった方が何も知らず幸せなのだろうか。慣れた手つきでナイフとフォークを扱う、レストランで出会ったあの少年のように。
tredair

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「誰が悪いわけでもない」の「誰が」には入らない人もいる、ということを最近ちょっとずつ意識するようになってきた。

たとえば戦争に行き人間を殺さざるえなくなった人も、「そうせざる得ない立場に追いやられたから」と考えればちっとも悪くはないのかもしれない。戦争責任等の問題を市民レベルで議論しても議論にならないのは(つまり感情論にしかならないのは)、つまり、そういうことなのだと思う。両者に同情すべき点があるのだからどうしようもない。

けれど、戦争を確信的に利用して巨万の富を得、その利益を自分の私利私欲にのみ費やす人も「誰が」に入れて擁護すべきなのだろうか。常に自分は無傷のまま、決して表舞台には出ず裏で追いやるばかりの人も。個人的にはそれは違うような気がする。そして、世の中はそういった人こそが動かしているような気がする。

今日(11月13日)はデシーカの命日だそうだ。彼は天上から、アフガニスタンへの攻撃をどのように見つめているのだろう。たくさんの武器や諸々の利権で漁夫の利を得ている「どこかの誰かさん」を、どのように見つめているのだろう。

この映画には、盗んだ者と盗まれた者という二極だけではなく、彼らの生活を踏み台にすることで優雅な生活を保つことができる(と推測される)立場にある者もさりげなく登場する。そしてそれは、二極だと思っていた両者は実は同じ極に立つ人間で、ホンモノの泥棒は本当は全く別の顔をしているのだよ、ということを後になってからふと意識させられる要素の一つでもある。

「何も知らず幸せ」な少年は、実は最も不幸な少年であるのかもしれない。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (19 人)irodori たわば[*] 甘崎庵[*] Myurakz[*] ぴよっちょ[*] Ribot[*] あき♪[*] ぽんしゅう[*] マッツァ[*] 24[*] NAMIhichi Yasu[*] 水那岐[*] sawa:38[*] ゲロッパ[*] muffler&silencer[消音装置][*] ina さなぎ[*]

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