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[コメント] 顔(1999/日)

処女幻想に逆エビを。
tredair

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「男の子」が「男のひと」へと成長していく話において「童貞を捨てる」ということがキーとなるのはよくある話だ。それをメーンイヴェントに据えた映画だってある。青春映画の一ジャンルとして存在している、と言ってしまっても過言ではないかもしれない。

その「捨て方」はさまざまで、美しいものばかりとは言い難い。それでも「通過儀礼」としての役割だけはどれもがしっかり果たしている。事実、その役割さえ果たしていればもうそれでよいらしく、実際の物語のキモは言うまでもなく「その後」にある。主人公はたいていその後にホンモノの愛を知ったり自己実現への第一歩を踏み出したりする。

一方、「女の子」が「女のひと」へとなっていく話において、「処女を捨てる」ということがキーとなって語られることはあまりない。それをメーンイヴェントとして据えた作品があったとしても、それは「少年と少女の物語」の一翼を担っているにすぎなかったり、もしくは過剰にロマンチックだったり不幸や転落への端緒だったりといったものになっている。

そもそも言葉の上においても「処女」は「捨てるもの」というよりも「失ったり奪われたりするもの」であることが多い。つまりビルドゥングスロマンにおける「通過儀礼」というよりは、明らかに「喪失」であるのだ。成長の過程というよりは、圧倒的に少女期への別れなのだ。

本来は同じことであるはずの「それ」が、どうして男女によってこうも扱いが違うのか。女性の側には妊娠や出産といったリスクもあるからなのか?と思わないわけでもないが、どちらかと言えばそういった生理的のものというよりも、もっと歴史的、社会的、ひいては思想的なものを背景としたものなのではないかと思えてならない。ひらたく言ってしまえば、処女幻想のようなものだ。

だから私はこの映画にびっくりした。この映画には処女幻想などみじんもなかった。それどころか「童貞」と同様、「捨てたいもの、捨てるべきもの」として語られていた。「女の子」が主人公であるにも関わらず、「喪失」というよりもむしろ「通過儀礼」として「それ」を扱っていた。

過剰なロマンチックをともなうわけでもなく(そこには愛情と性を緊密なものとして扱う思想などなかった)、 そうかといって不幸や転落へのきっかけとするわけでもなく(あからさまな転落へのきっかけは、言わずもがな冒頭の殺人だ)、彼女は単に「それ」を通過する。通過して、自己実現への第一歩を新たに踏み出す。「正子の大冒険」がさらに加速してゆく。

私はこうした映画も存在するということを、女性として心から嬉しく思う。

(評価:★4)

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