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[コメント] ヤンヤン 夏の想い出(2000/台湾=日)

エドワードヤンのつつましさ
小山龍介

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 エドワード・ヤンの「ヤンヤン 夏の想い出」のなかでは、不在の人物が重要な役割を演じている。一番の「不在」はもちろん、植物人間状態になるおばあさんだし、夫は妻の「山ごもり」、ヤンヤンのお姉さんは彼氏を奪われてしまい、父の仕事相手は、画面にすら出てこない別の人間で決まってしまう。そばにいるはずの人が居なくなってしまうとき、その「喪失」が、今まで見失っていた別の何かを照射する。そういう構造になっている。

 家族は、植物人間状態になった祖母に語りかける。それは祖母の治療の目的ではあるが、むしろ語りかける側の欠落をあらわにする。母親は、祖母に語りかけるべきことのない、あまりに単調な日常に気づかされ、山に修行へ出てしまう。人は誰かから教え諭されることによって気づくのではなく、自ら語りかけることによって自らを教え諭すようなところがある。母が山からの修行から戻ったとき、父親は、母が「不在」だったあいだに起こった出来事を報告する。その報告は、するべき義務もないし、母はその報告に対して何も答え様がないし、実際答えない。しかし、父はそれを語りかけることによって、自ら何かに納得し、大きな欠落に気づくのである。

 この映画が優れているのは、こうした「語りかけ」が必ずしも返事を期待していない、もしくは返事が期待できない状態で行われる一方で、その返事がないことによって、豊かな情感を描き出しているところにある。こうした微妙な表現が可能となっている一つの要素として、監督の、観客に対する優れた距離感があげられると考える。というのも、こうした語りかけとそれに対する沈黙、というのは、そこに、映画を通じての観客への語りかけと沈黙という構図と、実はパラレルになっているからである。

 ある感情へと誘導する映画、というのを対比して考えてみると分かりやすい。悲しみ、という感情を観客に持たせるために、さまざまな演出をする映画というのは多々あるが、そうしたある種、ファシズム的構造を、エドワード・ヤンは否定する。人物に対して、ほどよい距離を保つカメラは、感情移入を強制しないラインを厳密に守っている。ある感情を強く「語りかける」「働きかける」ことによって、観客をそういう感情へと「誘導」することを拒むのである。そこには、観客へのある種の信頼があると同時に、エドワード・ヤンが直接対面することのない「観客」、監督にとって「不在」であり、「語りかけ」に答えることのない「観客」に対するひとつの態度なのであり、そうしたエドワード・ヤンの慎ましさそのままを、登場人物たちは演じているように思うのである。

 最後のシーンで、弟ヤンは死んだ祖母に向かって、文章を読み始める。その内容は、将来映画監督になることを祖母に対して約束するような内容である。ここにきて、改めて、この弟ヤンがエドワード・ヤン監督の幼少時代の投影と知らされるわけだが、この無言の祖母への「語りかけ」がやはりエドワード・ヤンのものでもあったことを気づかされるとき、コミュニケーションというものに対するエドワード・ヤンの慎ましさを再認識させられるのである。(2001.1.1)

(評価:★5)

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