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[コメント] 丹下左膳餘話 百萬両の壷(1935/日)

とことん「縦」の映画なんですよ。→
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この映画は非常にコミカルで叙情あふれる人情喜劇であって、現代の観客にとっても十分に楽しめるものである。しかし、物語の進め方に用いられている手法そのものには、特別に独創的なものがあるわけではない。テンポのよい切り返しショットの多用、独特の間の取り方、わざとらしい台詞回し、こういったものは、多少は落語的な味付けがなされているとはいっても、基本的には20〜30年代のハリウッド喜劇の常道をなぞったものである。たとえば、望遠鏡を覗き込んだ家来が奥方に「壷が見つかった!」と告げ、奥方がそれを聞いて望遠鏡を覗き込んだとき、そこに見えるのは夫の浮気姿である。このつなぎからなんともいえずコミカルな味わいが出てくる。全編がそういったベタなコミカルさに満ち満ちており、観客は最後まで飽きさせられることはない。といっても、こういった手法自体、当時としてももはや「教科書通り」のものである。それだけであったならば単によくできた「ハリウッドもどき」の浅薄な喜劇にすぎないものであっただろうし、現代の鑑賞に耐えうるものでもなかっただろう。

しかし、山中の才能はそこにとどまるものではなかった。彼の独創はその構図の作り方にある。彼は日本家屋の特性を十二分に利用し、画面にずっしりと枠をはめてみせた。両端には必ず柱が置かれ、重い縁取りを画面にほどこす。ともすれば野放図に流れてしまいそうなほどに頻繁な切り返しショットが、額縁をはめられることによってぐっと引き締まったものとなる。それだけではなく、もう1本の縦線(柱や壁、人物)が画面の中央よりやや横に常に置かれる。この縦線によって画面はほぼ8:5の黄金比に分割され、両側の静と動のコントラストによって場面が構成されていく。決して中央線で画面を分割することはない。中央で分割してしまえば安定感が強くなりすぎてしまい、画の動きが殺がれてしまうからである。微妙に横にずらした分割は、幾何学的な安定感を画面に与えつつも、どこかダイナミックな変動の予感で画面を満たすことになる。額縁としての両側の2本の縦線、そして画面を黄金比分割する1本の縦線、この3本の太い縦線が、この映画を単なる浅薄なドタバタ人情喜劇から引き離す。縦線の安定感、黄金分割のダイナミズム、そして物語のスピード感の3つが、相互に厳しく牽制しあいながら、絶妙のバランスのもとにこの映画を進行させていくのである。

山中は、狭苦しい日本家屋の多すぎる柱、壁、格子をうまく利用して、縦線による画面の構造化を成し遂げた。ハリウッド喜劇の教科書的な作法を受け継ぎながらも、それを日本的環境のもとで組み替えてみせる離れ業をやってのけたのである。この縦線へのこだわりはほとんどパラノイアックなレベルに達している。ほぼすべての画面に3本の縦線を配置するだけでなく、その幾何学的構図をおびやかす可能性のあるものはきわめて注意深く排除されている。鴨居などの横の線はきっかりと縦線に直角に交わるように配置され、光の加減をうまく使いながら、あまり目立たないようにされている。斜めの線はほとんど出てこない。丹下左膳が刀を抜くとき、その動きは見事なまでに一切の傾きもなく、縦の線に平行になされる。また、彼が奇妙に傾いた姿勢をとるときにも、顔は常にまっすぐであったのは、その印象的な眼の切り傷を縦に保つためではなかったか? この異常なまでに貫徹された「縦線」へのこだわりに、単なる喜劇作家としてではなく、まさに映画作家としての山中の知性をまざまざと感得することができ、そこに慄然とせざるをえないのである。

小津が山中の死を知ったとき、深く嘆いたことはよく知られたエピソードである。そして戦後、たとえば「麦秋」や「お早う」などで、ハリウッド喜劇的な切り返しショットを多用しながら、日本家屋や狭小集合住宅の特性を生かした独特の画面作りをなしていったことは、山中への彼なりのオマージュとして捉えることもまた可能であろう。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (8 人)ペンクロフ[*] 3819695[*] Myurakz[*] モノリス砥石 ペペロンチーノ[*] ミドリ公園[*] ゑぎ moot

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