コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 時をかける少女(1983/日)

何十年ぶりかで偶然TVで観て、以前にもまして感動したことに驚いた。「吾郎くん」の諸所の部分や、深町くんを想い続けた「もう一人」がいた事もいまになって再発見。あと、演技の件について、個人的に思う事は→
YO--CHAN

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







論理になってないし、演出理論?にも全然ない話とは思うけど、自分はこう感じた。

棒読み、学芸会だからいい。あれは明確な作り手側の意図ではないのか?

仮に、原田知世がナタリー・ウッドやチャン・ツィーの様な演技力で芳山くんを演じたら、素晴らしい「芝居」になったろう。でも、それはあくまで「映画」だ。棒読みだからこそ、本作は「我々の物語」になったのではないか?敢えて「これは映画です、作り物です」と観客に告白させる事で(あのエンドタイトルとかも)、何かを問いかけてきたのでは? 何の根拠もないけどそう思う。(気のせいか、名優・上原謙までが敢えて「棒」をやっていた気もする・・・)。

棒といえば、今になって「吾郎くん」の印象が非常に強く残った。

なんとなく芳山くんを校門で待ってる。彼女が来たら後からおもむろに歩くのだ。

「よっこらしょ」と彼女を抱きかかえようとすると、吾郎くんはなんか胸がいっぱいになったのか「だめだ、代わってくれ」なんて言ってしまう。体重のせいじゃないだろう(笑)、深町くんは軽々と一人で抱えてたのに。

瓦がガラガラ落ちてきて、彼女が胸に急に納まっても、無表情で両腕を下ろしたままだ。あの放心した様な無表情が、自分には逆に印象に残る、

吾郎くんは芳山くんと歩く時、距離をとって前や後から歩く。それに対し並んで歩くのは決まって深町くんだ。もしや「深町くん」は吾郎くんのなりたかった姿、というか共同幻影とか、いっそ彼が蔵で密かに造った人造人間だったとか、そういう展開でも違和感がなく思えるほど、彼は切なく思えた。

実際、本作は動機の描写やラブシーンなどほとんどない。なのになぜか「歩くシーン」が印象に残る。ほんとに黙って並んで坂を歩くだけなのに・・・例えば『恋恋風塵』の冒頭、二人が台湾の普通列車でなんてことなく通うシーンの様に素晴らしい魅力?がある。 そういえばあの、看破と毒舌のエッセイスト小田嶋隆ですら、このシーンにだけは文句をつけなかったなあ・・・

P.S.

既に言われ尽くした事だろうけど、「10年後」で今更ながらに気付きました。 記憶を消されても、心のどこかで思慕を残していた人がもう一人いたとは。

老夫婦の入江たか子が「いない孫」の物をいまだ買ってたというセリフがある。「深町くん」が孫として住み込んだ間、彼女の祖母としての想いが、記憶消されてもどこかに残っていたのか?という含みが、ラストのすれ違いに微かな期待を与えてくれた(なんて事をいい年して書くと、ホント恥ずかしいが)。

深町くんだって相当な覚悟があった筈だ。火事をバックに帰る時、心中は不安でいっぱいだったかもしれない。(いいのか?こんな事まで話しちゃって)(未来に帰ったらひどい叱責が・・・)。

それでもいい、例えタイムパトロールに強制送還されても、お尻に電極で厳しい尋問を受けても、記憶以外のどこかに深町くんの想いも残っていたのだと思う。どこに?と言われると困るけど、それはもしや「観客の中に」かもしれない。

P.S. Webで見たら、大林監督は原田知世と「もう一本一緒に撮ろうよ」と某イベントで約束していた。もちろん単なる話題作りに過ぎないのかもしれないが、本作の観客としては「ぜひお願い」と言いたい。今度は深町家の老夫婦役を、かつての「吾郎くん」と演じてほしい。逆に、深町くん視点から同じ舞台をクールに捉えるとかでもいい。「コメットさん」だって九重祐三子がリメイクに声だけながら出ていたそうだし、いけるかもしれないぞー(笑)

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (0 人)投票はまだありません

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。